子どもに昔話をして聞かせるのは、昔から、老女の役割ときまっているようで、私も祖母や大伯母から、たくさん昔話をきかせてもらった。かちかち山や浦島太郎からはじまって、あんどんの油をなめる化猫や、大江山の酒呑《しゆてん》童子、「安寿《あんじゆ》恋しや、ほうやれほ」の山椒太夫の話、源三位頼政の〓《ぬえ》退治など、レパートリーはなかなか多彩であったが、長い話になると、一つの話をていねいに全部話すことはめったになく、さわりだけを聞かせて、前後はざっと筋を通すという具合であった。
中には、ひどく短い話もあった。尻切れとんぼの話もあった。
いちばん短くてひどかったのは、今でもおぼえているが、祖母の自雷也の話で、「自雷也っていう忍術使いがいたとさ。蟇《がま》の忍術を使いましたとさ。そうすると、蛇となめくじの忍術使いが出てきてね。かえると蛇となめくじで、はい、三すくみ」
何のことだか、まるで分らない。
うるさく話をせがまれて、たぶん針仕事か何かしながらの受け答えだったのだろう。昔話ではなく、先月見た歌舞伎の舞台のながめだったかも知れぬ。
そんな話をされると、おもしろくないから、だだをこねる。また、おもしろい話をされると、もっと聞きたいから、せがむことになる。だだをこねたり、せがんだりが重なると、祖母も大伯母も、かならず、ある文句を唱えて、話を止めた。それはじつに変な文句で、
「下谷ナントカ町のナントカのお婆さんがブウとおならをしたら、壁が真黄色になりましたとさ、はい、おしまい」
というのである。
話の中身とは、まるで関係がない。どんな話でも、この文句が出てくると、それでおしまいなのである。それは、一つの物語の終了よりも、話すという行為の終了を告げていたようである。今日のお話はこれでおしまい、というわけだろう。とにかく、「下谷ナントカ町の」が始まると、私はおかしくなって笑い出し、笑う私を見て老人たちも笑い、話は終るのだった。
——という話を、私は娘たちに話す。
「あはは。くだらないッ。うふふ」
「くだらない割には、よく笑うな」
「でも、ずいぶん難かしい話きいたのね、パパは。頼光の四天王なんて、きいたことないわ」
「そうだろう。まあ、仕方がないさ」
「そのおばあさんたち、今生きてると、いくつになるの?」
「あててごらん」
「百ぐらい?」
「ヒントをあげよう。大伯母さんからきいた話だ。そのおばあさんが、五つか六つか、とにかく、ほんの小娘だったころの話だ」
「ノン・フィクションね」
「その時分、家は本所にあった。ちょうどお雛様《ひなさま》の日でね、近所の仲のいい女の子が遊びに来ていたんだって。とても寒い日で、雪が降っていたけれど、二人とも振袖を着て、ごきげんだったらしい。雛あられをたべたり、白酒をのんだりしている内に、三味線をひきたくなった」
「へえ、ませてたのね」
「どうせいたずらさ。今の子供なら、ギターというところだろう。それともおもちゃの三味線だったか、その辺は聞き洩らしたが、とにかく、二人で三味線を抱えて雛段の下へもぐり込んだ」
「ああ、あそこ!」
「覚えがあるだろう。その日は外が雪明りだ。毛氈《もうせん》の赤い色が、内側から見ると、とてもきれいだったって」
「…………」
「おばあさんとその仲よしの娘とは、浮かれて、三味線をひきながら歌をうたいはじめた。白酒に酔ったのかも知れないな」
「かわいい!」
「そうするとね、台所のほうで大きな音がした。大変な音なんだ。それから大きな声がした、『大変だっ、旦那』って」
「ふうん。銭形平次みたい」
「びっくりして二人とも雛段の下から出た。台所へ来たのは、出入りのナントカさんでね、『大変だ。今しがた、井伊様が桜田門で斬られた』って」
「あ、ホント?」
「『さあそれからは上を下への大騒ぎ』というのが、大伯母さんの結びの文句だった。大体、見当はついただろう。おばあさんたちは安政生れだ」
「そういうノン・フィクションの昔話、子供にはおもしろくないでしょ?」
「だろうね。パパが聞いたのは中学生の時だ。雪は止んでいたけれど、やはりとても寒い日でね。二月二十六日だった。その日が、また、大変さ。二・二六事件といってね……」
——一九六七年三月 婦人公論——