「Aさんじゃありませんか?」
突然声をかけられて、振向くと、T氏の顔が笑っている。
香港。九竜市の目抜き通り、ネーザン・ロードに近いあるホテルのロビー。午後のテレビはアメリカ製の喜劇をやっている。ブロンドの美人が"I don't know! Get out!"と叫ぶと、「我悟知道、出春!」とスーパーが出る。
こんなものを眺めているのは、所在のない証拠である。撮影の仕事で香港へ来ているが、今日はあいにく夕方まで出番がない。しかも、天候が定まらないので、いつ何時、出番が繰上らないとも限らぬ。散歩に出かけるわけにもゆかない。英国茶を飲み、中国茶を飲み、珈琲《コーヒー》を飲み、茫然と濾咀長煙「吉士」をふかしながら、テレビを眺めている。
こういうときに知人から声をかけられると、地獄で仏に遇った思いがする。
「撮影ですか。大変ですね」
「Tさんは?」
「昨日着きました、台北から。まだ振り出しなんです。アジア、中近東、アフリカ、東欧圏、ヨーロッパ、中南米、カナダと八十カ国ほど廻って、日本へ帰ります」
「何日くらい?」
「一年半の予定です、記事を書きながらなので」
「大変ですね、特派員の仕事も」
「好きですから。——こんどは、どんな役なんです?」
「新聞記者ですよ」
「おや、また?」と笑いながらT氏が言う。
痩せぎすで、小柄で、この人のどこにそんなエネルギーが潜んでいるのかと思われるようなタイプの活動家が、世間には少なくない。
T氏も、その一人である。敗戦後間もないころ、T氏は対日感情の極度に悪かったフィリピンへ、当時まだ珍しかったテープ・レコーダーを持って乗り込み、日本人捕虜収容所の実情を記事にした。その記事は評判になり、映画化された。そのとき、T氏にあたる狂言廻しの新聞記者の役をやったのが私で、これが私にとっては、T氏と知合うきっかけとなり、また映画というものに出るきっかけともなったのである。
「ええ、また」と、こちらも笑いながら、「香港には幾日くらいいらっしゃるんです?」
「一週間の予定です。香港というところはね、いろいろあるんですよ、思い出が。私はここの海軍飛行隊にいたんです」
「と言うと」
「ええ、今の飛行場、あそこです。かわいい女の子と知合いになりましてね。ポーッとなりました。むろん、独身ですよ、当時は。戦争がすんでからも、手紙のやりとりがありましてね、まあ、向うもこっちも、それぞれ結婚したわけですが、そのうち、双子が生れたという便りが来ました」
「ほう」
「女の双子でね。それがもうすっかり大きくなって、今年は大学へ入るんです。一人はカナダ、一人は日本へ留学させたいが、どうだろうかという相談を受けたんで、去年、一人、私の家へ呼びました。もうすっかり家族の一員です。じつは、今しがた、こっちの両親を訪問してきたところなんですがね、昨日東京で、『サヨナラ』って笑いながら手を振っていた娘とそっくり同じ娘が、『コンニチワ』って笑いながら出てきたときには、何だか、おかしくってね」
「なるほどね」
「香港には、ずいぶん辛い思い出もあるんだけれど——十年ほど前に、やはりこんどのように世界一周旅行をしたことがあって……」
「ああ、あれ。国産自動車で……」
「ええ、あのとき。バグダッドまで辿りつきましてね、領事館で一と息入れながら、そこの人たちと雑談をしているうちに、私がふと、当時国連総会に出席していたある若い女性——外務省の一等書記官でした。優秀な人でね、将来、日本に女性の大使が出来るとすれば、その第一号になること間違いなしと言われていた人なんですが、その名前をふと口に出したんです。すると、領事館の連中が顔色を変えましてね。さっき入ったニュースによると、その人の乗ったカナダ航空の飛行機が墜落して、生死不明、しかし十中八九まで絶望だというわけです。いても立ってもいられない気持でしたが、後のニュースが入るまで待つわけにはゆかない、出発しました。結局、だめだったんですけれどね。……じつは、その女性とはじめて会ったのが、香港島のリパルス湾。両方とも大学生でね……」
話が佳境に入ろうとしたとき、出番繰上げの知らせが来る。濾咀長煙「吉士」——つまり、フィルターつきキングサイズ「チェスターフィールド」の火をもみ消しながら、私も、残念無念の思いで、立上る。
——一九六七年五月 婦人公論——