移り住んで十二年、わが家の庭も、だいぶ古びて来た。
庭と言えるほどの庭ではないが、一年中、何かしら花が咲いている。もと芋畠だったせいか、草も木もよく育つ。ばらの差木をすると、どんどんふえる。鉢植えの木瓜《ぼけ》をおろすと、みごとについて、前より大きな花が咲く。大した手入れをするわけではない、日照りがつづけば水をやり、台風が来れば後始末をしてやる程度である。
手間賃がばかにならないので、めったに植木屋は頼まない。しかし、あまり葉が混んで来て、風通しが悪くなると、止むを得ずおいでを乞う。
植木屋の親方はわが庭をながめ、しばらく呆然としているが、やがて目を伏せて呟く。
「大体、草や木が多すぎるんだね、お宅は」
無理もない。梅、杉、もみじ、椿、百日紅、木蓮、白樺、馬酔木《あしび》、藤、くちなし、月桂樹、小米桜、柊《ひいらぎ》、泰山木、山茶花《さざんか》、沈丁花《じんちようげ》、あじさい、八ツ手、槇《まき》、つつじ、山吹、石楠花《しやくなげ》、芙蓉、雪柳などが無暗やたらに生い茂った様は、彼の職業的良心あるいは意欲を失わせるのに十分な光景であるに違いない。そこで私も、何となく伏目になって呟く。
「まあ、よろしく願います」
こんなに木や草がふえたのは、実をいうと、風流心のためばかりではない。一つには目隠しのため、二つには健康のため、出来るだけ良い空気を吸いたいためである。
塀や垣根までは予算が廻らず、仕方がないから蔓薔薇で垣をこしらえ、往来から見通しになる所へ、少しずつ木や草を植え込んだのだ。
空気の方は、都内としては、まずまずである。すぐ裏を環状七号道路が通るようになってからも、排気ガスの災いは、わが家の庭まで届かない。小綬鶏《こじゆけい》や尾長が遊びに来る。
しかしこの頃、家の前の狭い道を通る大型小型のトラックやオートバイが、激増してきたようである。環状七号のせいか、第三京浜国道が出来たためか。何事によらず、豪勢繁昌の大道が出来ると、そこへ通じる細道までも騒然として来るものらしい。
植木屋の親方には申しわけないが、また少し草を植えようかと思っている。
——一九六六年五月 暮しの手帖——