蚕豆が小皿にのって、澄まして出てくると、がっかりする。
子供のころ私の家では、おやつに、蚕豆をよくたべた。大きなどんぶりに、山盛りにした塩ゆでの蚕豆を、お茶をのみながら、みんなでたべる。脇に盆をおいて、皮はその中へ入れる。たべ終ると、盆の方が山盛りになる。
そういう風に、惜しみなく、という感じでたべないと、蚕豆はうまくない。錦手の小鉢かなんかに、ちょいと八、九粒、いかにもはしりめいた小柄なのがおさまっていると、へんな気がする。そんな、御大層な豆ではない。
枝豆も、おやつになることがあった。しかし枝豆は、ときどき、いやなにおいのするやつがあり、うっかりそれを噛むと、とんでもないことになるので、あまり好きではなかった。蚕豆には、そういうことがないのはなぜだろう。
一体に、大正末年、昭和初年の東京のおやつは、ずいぶん質素なものだったという気がする。
——一九六〇年六月 週刊文春——