そういう人たちにとって、レコードが発明され、近代工業のペースにのって、大量生産されているということは、大きな幸福である。もしレコードがなかったら、この二人が死んでしまった今日、どうしようもないではないか。ちょうど、かつてのニキッシュやビューローについて、どんな評判があり、噂《うわさ》があろうとも、じかに感じとることはできないのだから、信者になるのは、どうあっても不可能なように。
ところが、フルトヴェングラーはともかく、そういうクナッパーツブッシュ自身が、どうやらレコードの録音を好まず、現在残っている彼のレコードはバイロイト祝典劇場での実況録音か、さもなければいやがる子供を無理矢理スタジオにおしこんでの仕事であったらしいのは、皮肉な話である。これについては、例のショルティ盤『指環《ゆびわ》』の全曲完成をなしとげたプロデューサーのジョン・カルショーが『プロデューサーの手記』という非常にスリリングな本の中でおもしろい逸話を書いているから、知っている人も多かろう(カルショー『ニーベルングの指環』黒田恭一訳、音楽之友社)。要するにカルショーは、元来、クナッパーツブッシュの指揮で『指環』全曲を録音したかったのだが、この老いたる大指揮者のほうには、そんな骨のおれる仕事を引きうける気はなかった。それにクナッパーツブッシュという人にとっては、演奏に多少のキズがあっても、聴き手がそんな細かなことを気にして、演奏の全体をつかみそこなうだろうなどと考えるのがむずかしく、また、そんな聴き手のために、苦労して何回も録音し直すなどという気にはとてもなれなかったというのである。
こういうわけでクナッパーツブッシュの演奏をきく人は、レコードがあっても、ほかの場合は常識になっている細部の正確さ、よく計算された、平滑冷静な演奏の美しさといったものを期待するわけにいかない。ここにあるものは、音楽的精神のもっと直接的な燃焼、そのときどきの感興のより自由な放射の喜びである。どだい、クナッパーツブッシュは、演奏会の時もあらかじめリハーサルを重ねて細部まできっちり固めてしまうような行き方を好まなかったと伝えられるが、こういうことも、現代の常識とはずいぶんかけはなれたやり方である。
もちろん、こういうことが可能になったのも、クナッパーツブッシュのレパートリーが主としてヴァーグナー、ブルックナーを中心とする、十九世紀のドイツ音楽に限られていたという事情も充分頭においておかなければならない。
ヴィーン・フィルハーモニーを指揮しにいったクナッパーツブッシュが、ある時、練習をはじめるに当たって、「この曲は、諸君もよく御存知だし、私もよく知っている。だから、別に練習するにも当たるまい。今日はこれで帰る」といったとかいう話は、どこまで真実で、どこが誇張されているのか、私は知らないが、とにかく、これはその時譜面台にのっていた曲が、オーケストラも指揮者も、これまでいやというほどくり返し手がけてきたものであったことを前提としていればこそ、話になるわけで、だからといってクナッパーツブッシュが、どんな場合も、何の準備もせず、演奏にとりかかったということにはなるまい。
即興性の重視、細部の機械的完璧《かんぺき》より精神的放射の尊重といった点はフルトヴェングラーの行き方についてもいえるわけで、こういうタイプの指揮者が、特に熱烈な信者的ファンを獲得するというのは、おもしろいことである。フルトヴェングラーとクナッパーツブッシュを、何もかもいっしょにして見るというのではないが……。
それにしても、この二人について特に熱心な聴衆のグループができていたのは、何も日本に限ったことではない。ヨーロッパにいっても、そういう人にしばしばぶつかる。ただ、ちがうところは、ほかはともかくヨーロッパでは、そういう信者のたいがいが、フルトヴェングラーにせよ、クナッパーツブッシュにせよ、実演できいたうえで、そうなった点である。
私が、クナッパーツブッシュをきくことになったのも、そういう一人に、はしなくも、ロンドンで出会ったことが機縁になった。ロンドンであるポーランド生まれの女性歌手に紹介された。彼女は、私がまもなくドイツに行くといったら、「ドイツ・オーストリアに行って絶対にきくべきものは、ブルックナーを指揮するクナッパーツブッシュに止《とどめ》をさす。フルトヴェングラーに往年の元気がなくなった以上、クナッパーツブッシュこそ、そのためにわざわざヴィーンやミュンヒェンに出かけて行く価値のある唯一最大の指揮者だ」と教えてくれたのである。これも一九五四年の話である。いつもいつも、古い思い出で申しわけないが。