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世界の指揮者01

时间: 2018-12-14    进入日语论坛
核心提示: ヴァルターの姿には、私は、一度だけ接することができた。一九五三年から五四年にかけて数カ月ニューヨークにいた当時である。
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  ヴァルターの姿には、私は、一度だけ接することができた。一九五三年から五四年にかけて数カ月ニューヨークにいた当時である。その時、私は、トスカニーニは何回かきけたのだが、ヴァルターはたった一度。どうしてそういうことになったか。今考えてみたのだが、多少は私のこの両巨匠に対する関心のあり方の相違にも関係はしているが、それと同時に、めぐりあわせということもある。というのも、ヴァルターはニューヨークでは、メトロポリタン・オペラでもニューヨーク・フィルでも大いに活躍していたわけだが、それをもう少しくわしくみると、フィルハーモニーのほうは一九四七年から四九年にかけて指揮者兼音楽顧問の任務にあったし、メトロポリタンのほうは一九四一年から四五年、五〇年から五一年、五六年から五七年という具合に契約していた。少なくとも、リーマンの音楽辞典(Riemann; Musiklexikon, 1961)によって調べると、そうなる。だから、私のいた五三年から五四年は、ちょうどその空白期間に当たっていたのである。当時のフィルハーモニーの常任指揮者はミトロプーロスであり、メトロポリタンにはもちろんいろいろな指揮者がタクトをとっていたが、ヴァルターの姿は見られなかった。
 戦争が終わったあと、一九四八年からは、ヴァルターはヨーロッパにしげしげと指揮に出かけて行っている。ヴァルターは、周知のように、ドイツにナチ政権が樹立された一九三三年に、ドイツを離れた。ユダヤ人出身だからである。当時の彼は一九二五年以来ベルリン市立オペラの音楽総監督、それから一九二九年以来はフルトヴェングラーの後任としてライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の楽長の職にいた(両者を兼ねていたのだろう)。ナチが政権を掌握したのは三三年だが、彼らはその前から騒いでいたわけだし、ヴァルターにしてみれば、祖国を出る前からすでに仕事はずいぶんやりにくくなっていたのだろう。何しろナチのプロパガンダは悪質で、悪知恵に富んだものだったし、そのうえ暴力に訴えることを少しも躊躇《ちゆうちよ》しなかったのだから。
 ナチはヨーロッパ二十世紀の運命に深くつきささった大きな問題だったわけだが、十九世紀に生まれ、今世紀前半の指揮界の主導的立場にいた人びとのナチに対する反対の仕方は、それぞれの芸術を考えてみるうえで、大切な要素になっている。ただし、非常に複雑な局面において発生した問題であるだけに、そのこと自体も、簡単に白と黒という具合にわけることは、真相をかえって見誤ることになる恐れがある。
 私たちは、トスカニーニが即座に全面的にナチを拒否し、これに反対したのを知っているが、その点では彼がナチの台頭以前に、すでにムッソリーニのイタリア・ファッショとの抗争の歴史をもっていたことを忘れてはならないだろう(私は、何も、彼がさもなければ、ナチにもっと妥協的態度を示しただろうなどといっているのではない。彼が、ドイツの同僚の多くよりも早く、ファシズム政権の何たるかについての体験と認識を重ねていたという事実をいっているのである)。これにくらべて、フルトヴェングラーの対応の仕方は、ずっと複雑で曲折を重ねたものだった。このことについては、また、この二人の巨匠を扱うときに、少しふれることになるだろう。
 この二人にくらべて、ヴァルターは、ユダヤ人だったから、好むと好まざるとにかかわらず、ドイツを去らなければならなかった。したがって、彼には、フルトヴェングラーたちとちがい、自身で決断し選択するという可能性は残っていなかった。しかも、ヴァルターは、ドイツを去ると、まずヴィーンに行き、一九三六年には国立オペラの監督(Direktor)になっている。ついで一九三八年ドイツ・オーストリア合邦が実現すると、彼はフランスに逃れる。アメリカに渡ったのは、そのあと一九三九年になってからである。この事実を、どう考えるか?
 ヴァルターは自伝『主題と変奏』で、それについてふれているが、私一個の考えをのべさせていただけば、こういうことになる。第一に、ヴァルターは政治については頭を悩ますことの少ない人間であったのだろう。ナチがドイツで政権をとったら、同文同種のオーストリアを何らかの手段で早晩併合してしまう挙に出るであろうことは、少し考える人なら自明の理だったろうに、彼にはそれが考えられないか、さもなければ、彼はそういうことを考えたがらなかった(念のためにいっておけば、ナチは——それも猛烈なナチが——オーストリアにも合邦前からすでに蔓延《まんえん》していたのである。オーストリア人のすべてが、ドイツ・オーストリア合邦に反対し、その犠牲になったと考えるのは、歴史的事実に反する。それにヒトラーがオーストリア人だったことも忘れてはならないだろう)。
 その年のうちに、ドイツ・オーストリア合邦が成立すると、彼はまず手近のフランスに亡命する。これもまた、驚くほかないような見通しの悪さである。金がないとか職場が簡単にみつかりそうもないといった条件でしばられている幾百万の人びととちがって、ヴァルターのような当代きっての大指揮者なら、世界中どこに行っても活躍できるのが明らかだろうに、アメリカはおろか、イギリスを選ぶことさえしなかった(もっとも、イギリスはアメリカとはまったくちがい、大陸からの亡命者には冷たかった)。ベルリンでナチとぶつかった同じユダヤ系の音楽家シェーンベルクは、とっくにアメリカに渡っていたのに。
 この事実は、しかし、また、いかにヴァルターが、ドイツ・オーストリアに強い執着を感じていたか、少なくともヨーロッパ大陸に対して離れがたい想いを抱きつづけていたか、そこを離れるのに、いかに後髪をひかれる想いであったかを示す。単に、思い切りの悪い人間だったというのをこえて、その点で、彼はトスカニーニとちがい、フルトヴェングラーと共通する地盤に立っていた。ただ、くり返すが、彼は、亡命を強いられたのである。それなのに——いや、だからこそ——いっそう、あきらめがつきにくかった。
 もし、この推測が正しければ、戦争中どんな想いで、ヴァルターがニューヨークで、ヨーロッパ大陸に帰れる日を待ちかねていたかを想像するのは、困難ではない。
 だが、彼は、ついに、旧大陸に再び定着することなく、死んでいった。どうしてか? その間に何か変化があったとすれば、それはヨーロッパが、かつての彼の知っていたヨーロッパに二度と回復しなかったからか? 一九四八年以降、何度かヨーロッパに客演しながらも、彼は自分の故郷をそこに再び見出《みいだ》すことができず、むしろ期待を裏切られた苦い想いをくり返し味わわなければならなかったからか? 戦争で深刻な痛手をうけたヨーロッパには、もう彼をふさわしいやり方でうけ入れる余地がなくなっていたのか? それとも、その間に、ヴァルター自身が、またひいては彼の芸術が、徐々に変貌《へんぼう》、変質していたからか?
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