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世界の指揮者41

时间: 2018-12-14    进入日语论坛
核心提示: では、フリッツ・ブッシュの指揮、つまり彼の音楽のやり方はどんなふうだったか? ドイツ人の外国の文化に対する接し方には独
(单词翻译:双击或拖选)
  では、フリッツ・ブッシュの指揮、つまり彼の音楽のやり方はどんなふうだったか?
 ドイツ人の外国の文化に対する接し方には独特のものがある。彼らは、たとえばシェイクスピアとかダンテとか、あるいはギリシア文化について、自分流に納得のいくまで考え、そのうえで自分たちの理解し、尊重するものとしての考え方を打ち出す。ドイツに行ってみると、彼らのシェイクスピアやダンテの演じ方や解釈には、それぞれの本国であるイギリスやイタリアにはみられず、しかも、国際的にみて、ちゃんとわかる、高い水準の芸術となっているもののあるのがわかるのである。それは、ローカリズムというのとはまったくちがう。各民族はそれぞれの民族色を出せばよいというのとはちがう。ヴェルディについてもそうである。それは一口でいえば、多かれ少なかれ何かの身ぶりを伴った歌のつづきの劇というものから、劇であり音楽であるものの一元化、つまり《綜合《そうごう》芸術としての楽劇》という存在になったヴェルディであるが、だからといって、これがヴェルディを裏切り、ドイツ化したものと簡単にいってしまうわけにはいかない。なぜかといってヴェルディ自身が、そういう音楽の劇を書いたと自認していたのだから。しかし、これはまた、演出万能主義というのともちがう。そうならないようなものがヴェルディにあり、そうして、この世紀の名指揮者フリッツ・ブッシュの音楽のつくり方の中にあったのである。
 ブッシュのグラインドボーンでの上演のレコードは、今のようにLPレコードが発達する以前、実演に接する機会がないので、せめてレコードでなりともモーツァルトのオペラをきいてみたいというものにとって、最も便利なものだった。と同時に、これは今日ではLPレコードに直されているので、ききかえしてみることができるのだが、今きき直してみると、たとえば録音の状態が今日の技術の粋をつくしたLPにはとうていおよばない。それにいくつかのナンバーが省略されている。それから最も残念なことはセッコ・レチタティーヴォがカットされているといったマイナスがある(もっとも伯爵夫妻とフィガロ、スザンナの四人の主役は、それぞれ一回ずつアリアの前にレチタティーヴォがついており、それによって演奏のスタイルの一端はわかる。ことにロジーナのそれが切々として胸にせまるよい出来である。ただし、チェンバロでなくピアノ伴奏だ)。にもかかわらず、私は、今でも、モーツァルトのオペラのレコードとして、結局これは最上のものの一つではないか、と考えつづけてきた。
 そうして今度、改めてそのうちの一つ、『フィガロ』のレコードをきき直してみての私の結論は——私はこのレコードを持っていないので、今度も久しぶりに借りて、きき直したのだが——、最上のものの一つというより「これこそ最上のものだ」といいたいところを、前にあげた技術上のハンディキャップがあるために、やっと我慢して、「何と素晴らしいモーツァルトだろう! こんなよいモーツァルトがきけるなんて、めったにあるものではない!」といってみたところである。
 ブッシュが、戦後そうそう、それもせっかくLPができて、これから何でもふんだんに、以前よりもっとずっとよい条件の下にレコード化できるという時に死んでしまったのは、本当に、いくら悔んでも悔みきれない痛恨事である。
 私が、このレコードで感嘆するのは、一口でいえば、ブッシュの指揮の下、モーツァルトの音楽が、一切の余計な飾りもコケットリーもなしに、率直簡明に、そのものズバリの状態で、歌われ演奏されている点である。そうして、それでいながら、モーツァルトの音楽の《形》というか《姿》というかが、それを通じて、曇りのない、このうえなくはっきりと正直に出てきている点である。
 これは、ほかの何よりも今世紀前半の《新即物主義》的演奏に近いものであり、ロマンティックなもの、感傷的なもの、あるいは上品ぶったロココ主義、あるいは、いわゆる《デモーニッシュ》な深刻がりといったものから非常に遠いところにあるのだが、それでいて、実は、ちっとも《即物的》ではないのである。なぜなら、ここには、《歌が音程とリズムと強弱を伴った音のつらなり》に還元されているところなど一個所もなく、すべてが音と時間の秩序であると同時に、生命の躍動であり輝きであるような、そういう演奏になっているからである。
 私たちは、序曲からきき出す。何と速いことだろう! だが、その速さの中で、何とすべてが自然であると同時に、モーツァルトのオペラ・ブッファの精神が脈々とあふれながら、先へ先へと躍るように前進していることだろう。これはモーツァルトたちにとって、アレグロとは、速いというだけでなく、快適に、そうして明快に流れる音楽という表情指定である証《あか》しである。
 そのあとの歌手たちのアリアや重唱も、みんなそうである。速くて快適で、そうして極度にひきしまって、贅肉がないくせに、ペーソス、哀歓がそこからおのずから生まれてくる音楽になっているではないか。そのうえ、人物たちの性格さえ、見事に区別されて出てくる。第一幕の終わりで、第九番「Non pi� andrai」のアリアを歌うフィガロ(ヴィリー・ドームグラーフ〓ファスベンダー)をきいていれば、どんなにこの男が小憎らしいほど抜け目のない男であり、下品でありながら、心の中の変化に敏感な男であるかがわかるというものだ。伯爵(ロイ・ヘンダーソン)も同じ。伯爵夫人にいいがかりをつける時の彼の荒々しさが、そのままスザンナに対する肉感的で厚顔な口説きの調子になる。この二つは、ここでは一つの貨幣の裏表にすぎない。権勢になれた野卑な男。その正体は彼のこのレコードでたまたま残されたレチタティーヴォ(第十七番Hai gia vinta causa!)をきくと、どんな肖像画をみるよりはっきり出ている。すごい性格描写である。しかも、ここでは外から何かを描写しようという努力は極力排除されているのに、そうなるのである。
 伯爵夫人(アウリッキ・ラウタヴァーラ)とスザンナ(オードリ・マイルドメイ)の一対にしても、そうだ。何と彼女らが、一見さり気なく、飾り気なく歌っていることか。そうして、その中で、何と音楽がまっすぐに流れながら、表情をつくっていることだろう。
 最終幕のスザンナのあの素晴らしいレチタティーヴォとアリア(第二十七番Giunse al fiu il momentoこれはまた、事実上、スザンナの唯一のアリアなのだが)——私は、この絶唱が、こんなに素直に、しかし、それだけ本当の深さをもって歌われている例をほかに知らない。これは「うまい」というのともちょっとちがう。おまけに、彼女はレチタティーヴォで、何回も管弦楽におくれて出てきて、指揮者を苛々《いらいら》させていたのがよくわかる。うまいどころの話ではない(譜例1)。
 こういうところが二個所あるわけだが、そのたびに、スザンナは、第一拍でオーケストラのC音とぴったり合って出てこないで、一呼吸おいて出てくるといったことをくり返す。しかし、このレチタティーヴォが終わって、八分の六拍子のアリア(アンダンテ)に入る、その移りゆきのすばらしさ!(譜例2)
 レチタティーヴォの最終の属七の和音から主和音への解決、ここでオーケストラはぐっとおそくなる。と同時に、この二つの和音が、つぎのアンダンテのアリアのテンポだけでなく、この比類のない《恋への期待の歌》の雰囲気《ふんいき》を、まるで名人がピタリと狙いをつけたかのように腰をすえて、作り出す。
 そこから、スザンナのアリアがはじまる。その見事さ。くり返すが、何の虚飾もなく、音の流れを素直につくるだけで、事実が浮かび上がってくるのである。
 これを、たとえばシュヴァルツコプフの同じレチタティーヴォとアリアの歌いぶりと比べてみるがよい。私は、これをきくたびに胸が痛くなるほど感じ入る。だが、そういう稀代《きたい》の名歌手の絶唱であるにもかかわらず、ここでのマイルドメイのさっぱりした歌い方にくらべて、何と手管にみちた細工にみちた歌にきこえてくることだろう。
 総じて、このブッシュのレコードで感じるのは、今日の演奏が、どのくらい、細かいがうえに細かいところまで、考えられ、工夫されたうえで行なわれているか、反省的な演奏という日本語はぴったりでないかもしれないが、reflective performanceになっているか、ということである。私は、だからといって何も、ブッシュのレコードにきく演奏がナイーヴな感じたままのものに何の省察も加えないで行なわれた演奏だといっているのではない。それでは、とても、こんなに簡潔で、何のむだもない緊張度の高いものにはならない。
 モーツァルトのあの大がかりに展開される比類のない大フィナーレ——『フィガロ』でいえば、第二幕と第四幕のそれのような事件がつぎつぎと起こり局面が急角度に変わってゆくなかにも、その中を一貫した軸がしっかり通っているような音楽を——これほど隙なく、しかも主体的に演奏できるものではない。第二幕のフィナーレもそうだし、ことにさっきふれたスザンナの比類のないアリアにひきつづいて、フィガロの《女心》をのろった歌をもってはじまる、第四幕のフィナーレの緻密《ちみつ》でしかも柔軟を極めたアクセントとテンポというものは、元来が器楽の合奏を長い間手がけていたフリッツ・ブッシュが、初めオペラを毛嫌いして、こんなにあわない、不正確な合奏や独唱を我慢しなければならないようなものとはとてもつきあえないと考えていたという話を、完全に信憑性《しんぴようせい》あるものにするに充分である。
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