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世界の指揮者76

时间: 2018-12-14    进入日语论坛
核心提示: チェコ・フィルハーモニーはヨーロッパで屈指のすばらしい交響楽団である。こんなことは、日本のファンもみんな知っている。そ
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  チェコ・フィルハーモニーはヨーロッパで屈指のすばらしい交響楽団である。こんなことは、日本のファンもみんな知っている。それにこの楽団は戦後少なくとも二回は日本に演奏旅行に来たはずだ。私の記憶が正しければ最初はアンチェルルと、それからつぎはノイマンと一緒に。アンチェルルとの時は、五〇年代の終わりか六〇年代の初めだったはずだし、ノイマンの時は、忘れもしないあの一九六八年の——ドゥプチェク政権のもとでのわきたつような《プラーハの春》がソ連を先頭とするワルシャワ条約機構諸国の軍隊の強圧の下に、真向うから押しつぶされた直後にあたる六九年の初頭のことだった。そうしてあの時は、ドヴォルジャークの『チェロ協奏曲』の独奏者として同行するはずだったチェリストに最後の間際になって外国旅行の許可がおりず、オーケストラの首席チェリストが代わってソロをやった。何でも飛行機の中で急にいわれたとかで、代わった人にとっても大変な難行だったろうし、それだけにノイマンをはじめオーケストラの僚友たちが一生懸命に独奏者のやりやすいように伴奏をつけている光景は、ただ見ているだけでも胸の痛くなるような光景だった。そうして、そのあと、一九七二年の初め、札幌の冬季オリンピックを機会にミュンヒェン・フィルハーモニーが日本に来た時は、同行するはずだった指揮者のノイマンに、国外に出る許可が急におりなくなったとかで、代わってリーガーだったかがやって来るという事件があった。
 こんなことは、すべて、指揮者論としては余談みたいなものだが、しかし、私には、そうとばかりと考えられないのである。現に、アンチェルルは、あの六八年を機として国外に出てしまったのではなかったかしら。それでノイマンが、彼の後任として、一九六九年の初め日本に来たのだ。
 クーベリックは、いうまでもなく、第二次大戦の少しあと外国に出て指揮生活に入ってからは、ときどき帰国もしているのだろうが定住はしないだろうし、こうしてみると、今世紀のチェコスロヴァキアの名指揮者には、祖国は必ずしも居心地がよいとは限らないということになる。痛ましい話だが。もっともこれは、ハンガリー出身の指揮者についても、まったくあてはまらないというわけでもない。
 ところで、以上のチェコ・フィルの常任指揮者の系譜でいうと、私には、ターリッヒ、アンチェルル、ノイマンという順に、よかったような気がする。といってもターリッヒのことは私は何も実際にきいたわけではないので、確定的な言い方はできないのだが。ターリッヒのレコードでは、最近になって千円の廉価盤がいくつも出るようになったが、これらはどれも非常な出来ばえである。もっとも録音の良し悪しのほうは、私にはよく品定めができない。レコードの価格というのも、実におもしろいものだ。このごろのように廉価盤ですばらしい演奏のレコードが出るような時節になると、最近盤のホヤホヤの高いものばかり追っかけるのも知恵のない話だと痛感させられる。そのターリッヒの指揮で、私がつい先日きいておもしろいと思ったのは、ヤナーチェクの『利口な女狐』組曲の入った盤(うらは『隊長ブーリバ』)である。この『利口な女狐』は、私には、もうオペラという種目に生まれ出た一つの奇蹟《きせき》としか思えないもので、その美しさ、魅力を味わうためには、筋など本当はどうでもよいのである。レコードに入っているのは、ターリッヒが編曲した器楽の組曲ものだが、それでも音楽のすばらしさを味わうに不足はない。音の独特な柔らかさをもって、しみ入るような美しさ、その底を流れている何ともいいようのないペーソス。これだけの音楽は、独自の輝きをもった才能の少なくない近代音楽の中でも、ドビュッシーその他、ごく何人かしか書けなかったものである。それがまた、ターリッヒのやさしくて、デリケートで、少しも無理のない、抑制のきいた、均衡のとれた演奏できくと、ひとしお、見事に響くのである。これは、もし演奏における近代チェコスロヴァキア楽派といった言葉を使ってよいのならそういうものとして、管弦楽演奏の最も高貴で真実なものに数えられなければならない。ターリッヒにはドヴォルジャークの『スターバト・マーテル』とか『第八交響曲ト長調』とかがある。そのどれもが、実に柔らかで品格にみちたものである。ドヴォルジャークを、十九世紀民主主義の泥臭く、荒削りのものと考える人は、びっくりし、迫力がないではないかというかもしれないが、そういったら、ターリッヒは「それこそ、外国の観光客からみたドヴォルジャークなんだ」と返事するのではないかという気がする。ただし、私は偉そうなことはいう資格はない。私自身が外国人として考えてみて、そういうことではないかなという気がする程度にすぎないのだ。こういう例は、ソ連の音楽家のチャイコフスキーの交響曲の演奏でも経験することで、ソ連人がやると、チャイコフスキーは、第二のベートーヴェンではないにしても、何か堂々たる大人物になったようにきこえる。そういうものだったのかどうか? 私は、鎧《よろい》かぶとに身を固めたようなチャイコフスキーをきかされたような気がして、あんまりゾッとしないのだが。
 さすがチェコの名家の指揮するドヴォルジャークには、そんなことはない。むしろそこには洗練と抑制がある。アンチェルルの指揮するドヴォルジャークがそうだし、それにこの人の棒できく時には、何もチェコの音楽に限らず、たとえばストラヴィンスキーでも、あるいはブラームスでも、そこに一つの余裕というか、対象をじっくり眺め、客観性と造形と全体の均衡に対する充分な心くばりのうらづけのある態度が感じられるのである。烈しさや鋭さがないというのではないが、すべてがむき出しの生《なま》の形では出てこないのだ。それに、もう一つ、こういう人たちの指揮では、私たちはオーケストラの質の良さというものをたっぷり味わうことができる。これは、作曲の良さと同じく、きく私たちの心を、快い満足でみたす行き方で、実に気持がよい。およそいわゆるムジカント的な、素直で率直でリアリスティックな態度でもって、実質のある音楽をきかせるというのが、こういうタイプの人たちの音楽の良さだが、その中で、ターリッヒとかアンチェルルとかいうのは、安定性と品格がある点が、ありがたいのである。
 彼らに比べると、ノイマンは、ちょっとおちる。というのはあたらないかもしれないが、彼には、どこか少しちまちました、実直だが、やや官僚的な杓子《しやくし》定規なところがあるように思われる。
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