私は一九六八年に出かけてそのザルツブルクの復活祭音楽祭にも行って、カラヤンの指揮演出によるヴァーグナーの『ニーベルングの指環《ゆびわ》』四部作中の『ラインの黄金』と『ヴァルキューレ』をきいたことがある。それから、同じ年の夏は、また、ザルツブルクで『ドン・ジョヴァンニ』のステージにも接した。また、別の年には、ヴィーンに行って、かつて彼がここの国立オペラの総監督時代にいろいろ演出した出しもののうち、『フィデリオ』を、(指揮者は別だが)彼の演出した形で上演するのにぶつかったこともある。
こんなわけで、私は、オペラの指揮者、演出家としてのカラヤンも経験したわけだが、カラヤンがそこでやる音楽は、本質的には、演奏会指揮者としてのそれと変わったことはない。要するに、ここでも、音楽の中心はメロス(歌う力)にある。だが、その歌が実に独特なものだということは、モーツァルトの交響曲をきく時よりも、ヴァーグナーの楽劇だと、より一面的だが、それだけ、より鮮明に出てくる。というのも、ヴァーグナーの音楽は、《歌と旋律》の音楽であると同時に、爛熟《らんじゆく》をきわめた和声の音楽でもあるわけで、同じ二十世紀の指揮者といっても、たとえばクナッパーツブッシュの棒できくと、この後者の濃厚にして官能的な和声音楽としての厚みと幅をいやというほど思い知らされるのだし、またジョージ・セルのような別のタイプの大指揮者できいても、正確な合奏から生まれる和音の響きの重厚で精緻《せいち》な味わいに圧倒される思いがする。ところが、カラヤンでは、単にいちばん私の耳につきやすい、外側の——というのも変な言い方だが——旋律だけが和音に支えられて浮かび上がってくるというのでなくて、中声部も低音部も高音部に少しも劣らぬ鮮かさできこえてくるのである。同じ音楽が、ここでは室内楽的透明さの音楽になっているといっても誇張ではない。ヴァーグナーが不世出の天才を傾けて書いた『ニーベルングの指環』のあの絢爛《けんらん》豪華な管弦楽が、弦楽四重奏か何かのような透明さをもち、しかもそれに少しも劣らぬ高度な音色の変化で彩られている状態を想像してみてもらいたい。
カラヤンのこの考え方は、歌手の選択にもはっきり出ている。カラヤンは、ここでも、ヴァーグナーだからといって、昔流の大きな声こそ出るが声の質の美しくない歌手、発声に無理のある歌手は一切使わない。巨大さとか、英雄的な高さといったものを、多少犠牲にしても、彼は、まず発声の美しい、整った声の出る、そうして正確な歌いぶりと、確実な演技のできる歌手を選んでいる。その最も代表的なのが、女性歌手でいえばグランドラ・ヤノヴィッツとかレジーヌ・クレスパン、ヘルガ・デルネシュであり、男性歌手でいえばジョン・ヴィッカース、トマス・スチュアート、マルティ・タルヴェラ、カール・リッダーブッシュといった人たちだということになるのではなかろうか? もっとも、私は、この四部作の全部の舞台をみたわけではないので、この点は百パーセント確実にいう自信はないのだけれども。しかし、ヤノヴィッツひとりをとってみてもよい。日本の人たちは、彼女の発声の見事さ、ことに高音部でのコントロールの絶妙さ、それからヴィヴラートの比較的少ない、透明だがやや表情力が中立的であまり強い個性のあるとはいえない声といったことを云々《うんぬん》するが、私のみるところでは、その美声もさることながら、彼女の歌い方が過去のヴァーグナー歌いの枠《わく》から完全にぬけ出て、まるでフリュートか何かの器楽の演奏でもきいているみたいな高度の純粋さをもっていること、これがカラヤンにとって彼女の最大の魅力なのではないかと思うのである。
演出家カラヤンについて、細かく書く余裕がなくなった。一言でいえば、この演出家としての面こそ、私には、すべてについて抜群の才能の持ち主であるかのようなカラヤンの中でも、最も弱い点だとしか考えられないのである。カラヤンが、専門の演出家の考えと衝突したあげく、オペラや楽劇といっても、要するに音楽が中心なのだから、というわけで、他人の邪魔をうけないよう自分で演出を受けもち、その演出でも、これまた、聴衆にもっぱら音楽に注意を集中しやすいように、なるべく余計な動きを排し、舞台もできるだけ暗くするという結果になる道筋は、理解できなくはない。しかし、その結果として、舞台の動きがかえって散漫になったり、空虚で退屈になったりするのでは志に反するのではないだろうか? そうはいっても、彼の舞台には、ちょっと余人には考えつきそうにない独特の工夫のあるのも事実だが。
それにしても、一つの音楽祭を企画運営して、その芸術面から経済面にいたるすべてにわたって、たった一人で全責任をもつという人物が現われ、しかもそれがヴァーグナーのような作曲家でなく、指揮者であるというのは西洋の音楽の歴史はじまって以来、カラヤンをもって初めとするのであろう。
そうして、これはまた、今世紀前半のトスカニーニやフルトヴェングラーの出現のあとをうけて、ついに今日の指揮者が音楽界全体の中で占めるにいたった途方もない巨大な重要さを端的に示す事実であるとともに、将来もこの通りゆくとはとても考えられないという意味では、もう二度と出てこないだろうところの、たった一回かぎりの現象かもしれないのである。