なかでも、交響曲という欄は、さすがにベートーヴェンの作品の中でも最重点眼目の一つだから、いろいろと考えた末の選択であるらしいのが、また、おもしろかった。全曲盤では誰々の指揮したものとか何とかあるのを読んでいるうち、『第三番エロイカ』では、ショルティがヴィーン・フィルハーモニーを指揮した盤というのがあり、私は思わず「なるほど、ね」と、声を出した。
もちろん、ほかにも、セル〓クリーヴランドの組を上げている人もあり、フルトヴェングラー盤といっている人もあり、という具合に、いろいろな名が上がっているのは書くまでもない。それも、おそらく、日本で同じような企てをやった場合より、はるかに変化にとんだ表が出来上がる。これも、ほぼ、初めから見当のつくことである。それにしても、『エロイカ』でショルティ盤を最良とするという意見を出す人といったら、日本で果たして誰だろうか? 私には、ちょっと簡単には思い当たらない。フルトヴェングラーとか、ベームとかなら、これはまた、大ぜいの人が推すだろうが……。
そう考えて、私は、改めてショルティのレコードをとりだしてかけてみた。それを終わりまできいてから、つぎに、カール・ベームがベルリン・フィルハーモニーを指揮したレコードをかけてみた。
第一楽章をきくと、テンポの指定が、アレグロ・コン・ブリオというのに、比較的たっぷりとった悠然たる歩みではじまるのは、両者とも同じようなものだが、それも束《つか》の間《ま》のことで、第七小節から第一ヴァイオリンに、シンコペーションで対旋律が入ってくるあたりからは、もうまるでちがってしまう(譜例1)。
私は、第一ヴァイオリンの部分だけ引用するが、この間の弦楽五部全体の動きを総体的にいって——というのも、私たちが実際にきくのは、第一ヴァイオリンだけでなくてその全体なのだから——、ベーム盤の演奏の中には、実に細かい、しかし同時に充実しきった《音楽》がある。人間の呼吸よりもっと微妙な息遣いがあるかと思うばかりの、豊かにして、力強い変化、といってもよいかもしれない。
一体に、ベームの演奏では、ベートーヴェン特有の精緻《せいち》であってしかも力強い、微妙であってしかも豪壮なダイナミックが、実によく捉《とら》えられている。特にクレッシェンドの果てにくるあるいはといった響きの強さと柔らかさとの交替の呼吸には何ともいえないものがあり、ベームがそこに厳密で細心な注意を払っていることが、手にとるようによくわかる。彼のそこを指揮する様子が目に見えるようだ。
それにくらべると、ショルティのは、ずっときめが荒いというか、とてもそんな細かな動きはない。それはむしろ真向微塵《みじん》とひた押しに押しまくる勢い以外の何ものでもない。といって、何もそこにだのスビト・ピアノだのがないと、そんな初歩的なまちがいがあるというのではない。ただ、そういうことがあっても、表現としての力に充分になっていないのである。力強いけれども、精度が高くないといってもよいかもしれない。その結果、ショルティの盤には、かえってベーム盤のあの堂々と幅広い大きさが出てこない。
だが、この二人の違いは、実はそういう点につきるのではない。そういったことは、むしろ、結果なのであって、原因ではない。それは第一楽章からさらに第二楽章以下ききこんでくるうちにだんだんはっきりしてくるのだが、ベームという人は、音楽の構造にはこのうえなく厳格に密着して、ことを運ぶのだが、その情緒的なもの——特に『エロイカ』のような、深刻で雄大なものに対しては、その中に没入するのでなく、むしろ、自分を守り、ある距離をおいてつきあっている。客観主義といってもよいが、それだけでは不充分である。そういう行き方が、しかし、かえって第一楽章に——それから終楽章にも——みられるように、この作品の比類のないスケールの大きさ、ことに楽想の有機的な発展という点で、同じくベートーヴェンの交響曲でもおそらく『第九交響曲』の第一楽章にしか匹敵するものがないかもしれないほどの高度の必然性というものを、見事に私たちの前に啓示してくれることになる。だが、逆に、第二楽章のような音楽となると、ベームはどうもくいたりない。私は、彼が個人として「深刻癖」といったものを好まないかどうか、それは知らない。また、ベームで深刻ぶったもの、悲愴《ひそう》感にあふれた激情的なものの表現が体質的に合わないような印象を与えられるのは、何も、この『エロイカ』がはじめてでもない。ベームという指揮者は、たしかに十九世紀に根をもつ芸術家にはちがいないが、反面日本などでみんなが思っているよりも、もっと「近代人」なのである。だからこそ、彼は、モーツァルトやR・シュトラウスと同じように『ヴォツェック』や『ルル』を好んで指揮するが、ベルクにせよシュトラウスにせよ、実は情緒的感情的な面からアプローチするのでなくて、もっと構造的に精密であって、純粋に音楽的な把握《はあく》を押しすすめることにもっぱら専心している人なのである。といっても、彼をまた、まったく知的で機能主義的な人とみるのもまちがいで、そういう点ではベームは、カラヤンよりずっとトスカニーニから遠いことはもちろん、フリッツ・ブッシュともジョージ・セルともまるで肌合いのちがう音楽をやる人なのだ。
で、ショルティはどういうことになるかといえば、彼の『エロイカ』は、この第二楽章に入って、ますます面目を発揮してくる。私は、それを名演奏と呼ぶのはためらう。だが、今日に生きて、こういう音楽を大真面目でやれるというには、何か一種の反知性的な気質か、さもなければ劇場的性格か、あるいは、そういうことを超越した本当に崇高なまでに精神的な態度か、何かそういうものが要るのではなか ろうか? そうして、ショルティには、この中で劇場的なものtheatricalな効果というものに対する本能が極度に強く発達しているのではなかろうか? と、私はこの『エロイカ』の葬送行進曲をききながら、考えるのである。この行進曲の第二のトリオというか、ヘ短調ではじまるフガートの部分以下(譜例2)。ここはもちろんこの楽章のきかせどころの一つで、痛切を極めた慟哭《どうこく》の披瀝《ひれき》されるところだが、こういう時、ショルティは、天にもとどけとばかり悲痛な叫びをあげる。ベームでは、とてもこう手放しにはいかないのである。
私は、ショルティが感傷的だとは考えない。むしろ逆である。しかし、それは彼に感情の真正さがあるからというより、むしろ、先にいった劇場的なものに対する直観的で本能的な強い共感性が働いているから、そうなるのだと考える。