赤紫色のネオンを掲げた旅館の門を、ゆみ子は油谷の片腕に寄り添うようにして通り抜けた。躊躇《ためら》いのない足の運びに気付いて、ゆみ子は一瞬立止りかけた。
「まだ、馴れないのか」
油谷は掌でゆみ子の肩をかかえこみ、顔を覗いて、言った。女の初心《う ぶ》さに好奇心を持ち、引出せる快楽の量を計っている眼にみえた。しかし、ゆみ子は自分の躊躇いのなさに躓いたのだ。
その躊躇いのなさは、油谷に心が寄り添っていることを示しているのか、酒場の女という仕事に馴染みはじめたためなのか、考えてみたが分らなかった。
部屋に入り、女中が茶を運んできて立去るまでの気詰りな時間が終っても、ゆみ子は椅子に腰をおろしたままでいた。油谷は、その椅子の傍に立ち、ネクタイをほどきながら、ゆみ子を見おろしている。
ゆみ子が椅子から立上ることを、催促している気配ではない。しかし、彼の指は絶え間なく動いて、ネクタイを取去ると部屋の隅に投げ、ワイシャツの釦《ボタン》をはずしはじめた。
その気配を訝しくおもい、顔を上げて油谷を見た。彼の眼に、平素見られぬ異様な光があった。ゆみ子が椅子から離れることを促す光ではなく、逆にゆみ子の躯を椅子に嵌め込み押据える光にみえた。
ゆみ子の眼に怯える色が走ったとき、彼の両手がゆみ子の肩をおさえつけた。ワイシャツをはだけた胸がゆみ子の顎に押当り、肩から横腹に沿って下へ移動した彼の二つの掌が、不意にゆみ子の両脚をすくい上げた。強張ったゆみ子の片脚が、椅子の肘かけに跨がり、椅子に嵌めこまれた躯が捩《よじ》れた。
力を掌にこめて、ゆみ子は彼の胸を押除け、鋭く声を出した。
「やめて、どうしてみっともない恰好をさせるの」
「厭なのか」
「当り前じゃないの」
手の力が弛み、念を押すように再び力がこもって、
「みっともない恰好をしたくないのか」
「厭」
怒りの眼を、油谷に向けた。そのゆみ子の眼を見ると、彼の力が抜けた。戸惑ったように、彼は椅子の傍に佇んでいる。ゆみ子は立上り、彼の躯に寄り添うと、そっと頬を肩にもたせかけて、ささやいた。
「ベッドへ行きましょう」
口から出た露骨な言葉に、ゆみ子は自分で驚いた。いまの状況からはやく脱れたいための言葉なのだ、とゆみ子は、自分に言い聞かせた。
ベッドで、油谷の眼の光が消え、その躯は萎えたままである。今夜もまた油谷は安全な男になっているが、ゆみ子はその安全さを懐しいものにおもえず、かえって危険を感じた。それが、どういう種類の危険なのか、手探りする気持で訊ねた。
「いつも、こうなの」
油谷は返事をせず、ゆみ子に体重を預け、背中にまわした二つの腕でゆみ子の胸を締めつけた。ゆみ子は眼を瞑《つむ》り、じっと動かない。そのままの形で、数分間経ったが、依然として、油谷は不能であった。強く触れ合っている油谷の胸が汗で湿るのをゆみ子は感じ取り、眼を開いた。眼の前に、油谷の顳〓があり、その皮膚にまるい汗の粒が並んでいる。汗の粒がふくれあがり、皮膚の上を移動して、シーツに落ちるのが見えた。ゆみ子は、余裕のある心になって、言った。
「もう、やめましょう」
油谷の顔に苦笑が浮んで、躯を離すと、黙って衣服を着けはじめた。かるい放心がゆみ子を捉え、躯を横たえたまま、油谷の動作に眼を放っていた。彼の躯が布片で覆われているのに気付くと、ゆみ子は自分の裸を鋭く感じ取った。荒々しい手で剥き出しにされた錯覚があり、起き上るといそいで下着に手を伸ばした。
衣服を着けたゆみ子と油谷が顔を見合せたときには、彼の表情は平素のものに戻っていた。落着いた、むしろふてぶてしい口調で言った。
「素直すぎるから、いけない」
「素直すぎるって」
「きみの躯が、素直すぎる」
不意打の言葉で、羞恥の色が浮ぶのを、ゆみ子は感じた。油谷の眼の光が強くなり、光に異様さが混った。片手をゆみ子の肩に置いて、指先を肩の肉にめり込ませたが、すぐにその手を引込めると、
「帰ろう、きみの住居まで送って行くよ」
おもわず拒否の身振りになり、ゆみ子は自分の部屋が恥部に似たものになっていることに気付いた。しかし、油谷はゆみ子の腕を強く掴んで離さず、旅館を出ると引立てるようにゆみ子のアパートの方角に足を向けた。