「なんだよ! 自分だって弱弱《よわよわ》のくせにさ」
自分だけ避難《ひなん》させられたことが悔《くや》しくて、おれは軽くドアを蹴《け》った。コンラッドがいれば弟の三男|坊《ぼう》も、有無《うむ》をいわさず室内組だったはずだ。コンラッドが、いれば。
「彼、フォンビーレフェルト卿《きょう》だっけ? 彼は全然、弱くないと思うよ」
「またそういう事情通っぽいことを。だってあいつ一度おれに負けてるんだぜ? まあ一応、引き分けってことにしてあるけど」
「油断してたのかもしれないよ。よいしょっと」
木製の扉の内側に、|椅子《いす》と机を押しつける。簡易バリケードのつもりだろうか。
「待てよ村田、そんなことしたらヴォルフたちが逃げ込めないじゃないか」
「彼等は後退しない。外に踏《ふ》みとどまってきみを死守する」
「し、死守って、|大袈裟《おおげさ》だな」
「単なる沿岸警備だから、今回は|大丈夫《だいじょうぶ》だと思うけどね」
窓の脇《わき》に立って外の様子を窺《うかが》いながら、村田は長く溜《た》め息をついた。
「渋谷、いい加減きみは、護《まも》られることに慣れなきゃいけないよ」
その|途端《とたん》におれは悟《さと》った。彼はコンタクトレンズを外していて、おれと同じ日本人のDNAを引く、黒い瞳《ひとみ》の持ち主だった。視力が悪いはずの裸眼《らがん》には、確かに以前どこかで見た輝《かがや》きがあった。
「……全部知ってるんだな?」
同年代の友人が、不意に恐《おそ》ろしく大人に思えた。彼の|虹彩《こうさい》の|瞳孔《どうこう》の、もっと奥の奥にある暗い光から、どうやっても視線を外せなくなる。針で突《つ》いたような一点を見諸《みつ》めると、痺《しび》れが腰骨《こしぼね》の辺りから駆《か》け上ってくる。
「全部、知ってて、黙ってたんだな?」
「やめろ」
少し慌《あわ》てた様子で、村田はおれの両眼を右手で覆《おお》った。
「危険だ。きみはまだ自分でコントロールできない」
「何を……」
「|魔力《まりょく》だよ。僕ときみは非常に|特殊《とくしゅ》な関係だ、うまく利用すれば強力な武器にもなる。ただしこれが諸刃《もろは》の剣《つるぎ》でね、一歩|間違《まちが》えば大惨事《だいさんじ》だ。ギルビットの館《やかた》で暴走しかけたのを覚えてるかい? あの時も相当危なかった」
「放せ!」
顔の上にある手を焦《あせ》って払《はら》い除《の》ける。ほんの短い間だったのに、昼間の明るさに両目がチカチカした。
「と、特殊な関係ってどういう……どういう言い方だよそれ! 友達だろ!? 中二中三とクラスが|一緒《いっしょ》だっただろ!? それ以外に……さっき、なんだか……ヒトの形を成す前に一緒だったとか、コンラッドに会ったとかも……ホントかよ、それ全部、本当なのか」
「本当だよ。信じられないかもしれないけどね。僕ときみ……正確に言うと僕と魔王は特殊な関係にある。僕は強大な力を持つ王に手を貸すことができる。そのために創《つく》られた存在だから。ただし渋谷はまだ魔術を使い慣れていない。下手に僕等が感応し合うと、魔力の暴走は止められない」
船は揺《ゆ》れていないのに、言葉の最初がうまく発音できない。
「え、えーと、ゲームだと合体|技《わざ》とかコンボとか?」
「うまいこと言うなあ」
技の呼び方を確認《かくにん》して、感心されている場合ではなかった。
村田はおれが魔王だなんてことまで知っていた。彼が偶《たまたま》々おれと関《かか》わったばかりに、運悪く異世界に飛ばされてしまっただけだとしたら、そんな事実を知っているわけがないのだ。
「……おれの|脳《のう》味噌《みそ》が冷静じゃないせいかな……なんかお前、自分はこっちの世界の人間だって言ってるみたいなんだけど。人間じゃないのかな、魔族なのかなあ。どっちにしろ、日本の、地元の同級生だった村田健が、実は眞魔《しんま》国の人でしたー! みたいに聞こえるんだけど」
「それに近いことを言ってるよ」
|両腕《りょううで》を緩《ゆる》く組んだまま、|壁《かべ》に背中を押しつけている。|身体《からだ》が半分|窓枠《まどわく》に掛《か》かっていて、その分だけ陽光を遮っていた。
「……|誰《だれ》なんだよ」
逆光で、彼は黒く見えた。
「誰なんだよ。村田? 村田じゃないよな! おれの知ってる村田健じゃないよな!? だって魔族にそんな名前ないもんな。ヴォルフはフォンビーレフェルト卿だし、コンラッドはウェラー卿だし。グウェンはフォンヴォルテール卿で、ツェリ様はフォンシュピッツヴェーグ卿、アニシナさんはフォンカーベルニコフ卿だ。ヨザックは……グリエだ。お前は何、お前本当は誰? まさかムラケンじゃないだろ? そんな日本人みたいな名前じゃないよな」
「言っただろ、僕は村田健だ。それ以外の何者でもない」
「そんな名前のやつは眞魔国にいない!」
「だったらきみは誰だ?」
質問で答えを返されて、おれは|一瞬《いっしゅん》言葉に詰まる。
「陛下、きみは渋谷|有利《ゆーり》じゃないのか? 十六になる直前まで、地球で、日本で高校生やってた、いつもいってる野球|小僧《こぞう》じゃないのか? 草野球チームのオーナーでキャプテンでキャッチャーで、ライオンズファンの渋谷有利じゃないのか? 本当は誰だと訊《き》かれても、僕は僕で嘘《うそ》も本当もない。僕だって地球で十六年間生きてきた。仕事しすぎで丸一日会わないことも多いけど、割と|平凡《へいぼん》な両親の間で、ごく|普通《ふつう》に日本人として生きてきたんだよ。学区が違うから小学校は別だったけど、中学ではクラスも一緒になっただろ。村田健って名前で生まれてきてるんだ。それ以外にミドルネームも洗礼名もない。十六年間近くにいたんだよ。同じ空気で呼吸して、同じ世界で育ったんだ。もっと聞きたいか? よく行く本屋もコンビニも、近道する公園も同じだよ。実は小六で一学期だけ通った塾《じゅく》も、その帰りに寄ったラーメン屋も同じだよ。これでいいか? これで|納得《なっとく》してもらえるかな。今さら本当は誰だなんて訊かれても、僕は僕だとしか答えようがないんだ!」
「だって、お前……」
声が|上擦《うわず》る。なんだか足の下の床《ゆか》が無くなって、そのまま深海に沈《しず》みそうな気分だった。
「……サボテンとか旅とか言ってたじゃないか……十六年間、同じ空気吸ってたのに、おれには判《わか》らないこと言うじゃないか。普通に高校生やってたら想像もしないようなこと、考え込みもせずに話すじゃないか」
「うん、それは、僕は生まれる前のことを、少し余分に覚えてるから」
「……コンラッドのことも」
「そう」
おれの魂《たましい》を地球に運び、名付親にまでなった男だ。なのに今は傍《そば》にいてくれない。心配ばかりさせて戻《もど》ってこないんだ。
「彼はきみの魂を抱《だ》いて地球に行き、大切に護《まも》って旅をしたんだ。きみがどこに生まれるかが決まるまで。僕の保護者はふざけた医者だったけど、地球のことを何も知らないウェラー卿を連れて、随分《ずいぶん》色々と頑張《がんば》ってくれた。きみには少々|厄介《やっかい》な追っ手がかかっていたから、そいつらから逃げる必要があったんだ」
「追っ手?」
「うん、次代魔王の魂だからね」
どうすれば生まれる前のことを覚えていられるんだ。赤ん坊《ぼう》は胎内《たいない》での|記憶《きおく》があるとか、テレビで言ってるのは聞くけれど、彼が話しているのはこの世に発生する前だ。胎児どころか卵子《らんし》や精子でさえない、わけのわからない存在の頃《ころ》の記憶だ。
「そんなの記憶に残ってるはずがない」
「そうだね、消去される。前世だったり魂の前の所有者の記憶は、魂の溝《みぞ》に|封印《ふういん》される。どんな魂も例外なく、それまで生きてきた様々な『生』の記憶を|蓄積《ちくせき》してるけれど、通常はその|扉《とびら》が開くことはない。生きていくのに|邪魔《じゃま》になるだけだから。新しい『生』で学んだことだけを知識とし、それを活用していけばいい。けど、僕は違う」
村田だと言い張る奴《やつ》の黒い目が、|眇《すが》められて細まった。
「……僕は覚えてる、忘れられないんだ。忘れることは許されないんだ」
「なっ、なに、を? そのー、前世とかもっと前も?」
「うん、その前もね。ずっと……そう、ずっとだ」
「え、ゴメンうまいこと、理解できな……」
正直、彼の説明が理解できない。前に生きていた時代の記憶があるだって? それはあれか、よく女子が占《うらな》いトークで盛り上がっている、あたし前世は戦国大名のお姫《ひめ》様だったんだーっていうネタか。必ずどこかのお嬢様《じょうさま》がいて、必ず外国の王女もいる。マリーアントワネットだった人は日本中に何人もいるし、ナポレオンの生まれ変わりは世界中に数百人はいるだろう。自分は石であったという控《ひか》えめな人がいると、何となく好感度がアップする。
でも、更《さら》に前まで語る人は、身近なところにはいなかった。超能力《ちょうのうりょく》番組では見たような気もするが、それだって二、三代|遡《さかのぼ》るのが精々だろう。
ずっとって、どれくらい?
「な、あの、ずっとって、五百年くらい?」
「もうちょっと長いな」
「じゃあ八百年、千年くらい?」
「いや、まあ約四千年くらい」
「うっそ? じゃあお前、中国四千年の歴史全部覚えてるの!?」
「渋谷ーぁ」
|呆《あき》れたような受けたような声をだす。
「僕は四千年間も中国人してたわけじゃないよ」
「中国じゃなかったら何処《どこ》にいたんだ。世界中を転々としてたのか?」
「うん、まあ色々だね。でも僕の前は香港《ホンコン》在住の女性だったし、その前はフランスの軍医だった。その前の所有者は……えーと早死にだったから職業もなかったね、十にならずに事故で死んだはず……そんな泣きそうな顔するなよ」
うっかり想像してしまい、もらい泣き寸前だ。
「だ、だってお前、十歳って、可哀想《かわいそう》に……したいこともたくさんあったんだろ?」
「待ってくれ、死んだのは僕じゃない」
村田は組んでいた腕を解《ほど》き、|拳《こぶし》で左胸をどんと叩《たた》いた。
「この魂の、前の前の前の所有者だ」
おれは口を締《し》めることも忘れたままだ。そんな|突拍子《とっぴょうし》もない話が理解できるものか。前世や魂というだけでギブアップなのに、早死にしたのは彼自身ではなく所有者だという。前も前も前も前も自分じゃないのか? 自分と違う者の人生を我がことのように抱《かか》えているなんて、楽しい生活送れそうにない。
「どう説明すれば解《わか》りやすいかな。例えば、主人公に感情移入して観た映画を、何十本も覚えてる感じ。ああ、第一次大戦は大変だったんだなあ、鉄道工事技術者は奥さん美人で幸せモンだね、現在はペストの|治療《ちりょう》法ができて良かったよー、十字軍の行進は子供心にも憧《あこが》れだったんだろうなあ……と、こう、色々な時代の長編映画を主人公の詳《くわ》しい|描写《びょうしゃ》つきで覚えてる。だから苦しいことや辛《つら》いことも、今の僕が味わったわけじゃない。四千年間の記憶があると言ったって、まだ十六年間しか生きてないからね。他人の不幸にもらい泣きしたり、悲劇で泣くことはあるけれど、自分の人生に起きることと同列には語れないだろう。もしもーし、渋谷ー?」
「だ……」
誰デスカ、じゃなくて、前世の記憶がある人々って、そんな語り方をしてただろうか。村田は随分と客観的だ。十字軍って一体、何世紀だろう。世界史赤点の身が恨《うら》めしい。
「けど四千年も昔って、お前、クレオパトラの映画も覚えてんの?」
「エリザベス・テーラー主演のは見たよ。でも本物のクレオパトラがいた時代には、この魂の所有者は|魔族《まぞく》の土地にいたからね」
「|眞魔《しんま》国に!? いたんだ!?」
「らしいよ。その頃はまだ、国名が……」
昔のドラマの設定を思い出すみたいに、村田は少し考え込んだ。
「そうか、やっぱこっちに居たことがあるんだ」
ひどく……非道《ひど》く|奇妙《きみょう》に感じる。
最初にこの世界に喚《よ》ばれたとき、憎《にく》きアメフトマッチョにアイアンクローを食《く》らわされた。お陰《かげ》で魂の溝って場所から、蓄積されていた言語が現れたのだ。その結果、おれの魂の前の所有者は、眞魔国で生きた人だと判った。おれがまだ渋谷有利でなかったときに、魔族としてあの国で生活していたんだ。
そんなことも忘れて日本で生きていた十六年間で、何十人もと知り合い友達になった。今、その中の親しい一人が、自分もまた眞魔国の記憶があると告白している。
「すごく妙な……変な感じだ。日本とこっちではっきり分けられない友人なんて……」
「無理もないよ。僕だって最初は|戸惑《とまど》った。今度の人生では秘密を分かち合えると知ったとき、嬉《うれ》しいと同時に恐《おそ》ろしくもあった。あまりにも長く秘密のままだったからね。実は僕、前世の記憶があるんですなんて、子供が言ったら嘘《うそ》つき呼ばわりされるだけだ。ずっと黙《だま》って生きてきたんだ。だから初めて渋谷に会ったときも、本当に彼は将来気付くのかって不安だったよ。まさかウェラー卿《きょう》が運んでいた魂が、こんな近くで生活しているとは思わないじゃないか。だって僕等はそれぞれ香港とボストンで生まれたんだし、日本といったって北から南まで広いからね。共通する秘密を持っ人物が、すぐそばにいるのはとても奇妙だった。もっともそれも」
そうか、村田は香港で生まれたんだ。両親は日本人だって聞いてるけど。
あまりに|衝撃《しょうげき》的なことをうち明けられすぎて、夜でもないのに意識が|朦朧《もうろう》としてきた。何だかとても怠《だる》くて眠《ねむ》い。現実から夢へと逃《に》げ込みたい。
「第二十七代魔王陛下であるきみに、力を貸すという重要な使命があったからだけど」
「……使命? じゃあ村田はおれを助けてくれようとしてんのか」
「そうできたら嬉しいと思ってる。|大賢者《だいけんじゃ》と呼ばれた頃《ころ》からの|膨大《ぼうだい》な|記憶《きおく》は、きみを助けるためにあるんだから」
「そうか、大けん……」
食べても飲んでもいないのに、喉《のど》の奥に丸い塊《かたまり》が詰まった。しばらく格闘して咳《せ》き込んでから、それが空気だったと気付く。仰天《ぎょうてん》しすぎて吸った息を吐《は》くのを忘れたのだ。気管に唾《つば》が入って鼻が痛む。
「っげ、だ、大賢者、だって」
「|大丈夫《だいじょうぶ》か渋谷。水持ってくる?」
そうだ。
初めて訪《おとず》れた魔族の王城、血盟城で、おれは彼の肖像画《しょうぞうが》を目にしている。
双黒《そうこく》の大賢者、この世で|唯一《ゆいいつ》、眞王と対等の者。彼がいなければ魔族は創主達との戦いに敗れ、土地も国もなく彷徨《さまよ》っていたという。
ヴォルフラムによく似た美しい青年王の数歩後ろに、|穏《おだ》やかな表情の東洋的な人物が描《えが》かれていた。外見は美よりも知性に勝《まさ》り、黒髪黒瞳の色だけがおれと同じだった。
「あの、大賢……げほっ……者……さまっ!?」
「違《ちが》うって、今は単なる村田だって」
ヨザックが猊下《げいか》と呼んでいた時点で、身分の高い人だと気付くべきだった。国語の成績が芳《かんば》しくない野球|小僧《こぞう》は、ゲイカなんて耳にしたこともない単語だったのだ。恐らくフリガナ無しでは読めないし、書けといわれても無理だろう。使用法もさっぱりだ。
おれ以外の皆がどうして気付いたのかは知らないが、救国の|英雄《えいゆう》、建国の父(母?)である双黒の大賢者が相手では、元王子|殿下《でんか》といえど楯突《たてつ》けまい。わがままプーがおれにばかり八つ当たりしたのは、村田が偉《えら》すぎたからだったのだ。
「だっ、どっ、どっ、どっどうしたもんだろうっ、とりあえず今からでも様つけて呼んでみようかな、村田様」
「やめろ、僕は何もしてないんだから! その人の記憶があるだけなんだからッ」
「……でも、ということはお前はおれなんかより、遥《はる》かにこの世界に詳しいんだよな」
「遥かに、ってことはないよ。僕にとっては生まれて初めての体験だし、魔族や人間の関係だって、彼等の時代とは大きく変化してる。言葉や知識に長《た》けてたって、村田健にとっては未知の場所なんだから」
「なのに、ずっと|騙《だま》してたのか……」
「騙して、なんか」
「だってお前、言ってくれなかっただろ。最初に言葉が通じたときだって、ドイツ語できるからとか言い訳してた。フリンのとこでアメフトマッチョに会ったときも、いい加減な誤解で誤魔化《ごまか》してた……あれ全部、おれを騙してたんだな。知ってて平気で嘘をついたってことだよな」
おれはずるずると座り込み、机の脚《あし》に寄り掛《か》かった。板が素直《すなお》に重さを伝え、扉《とびら》を軽く軋《きし》ませる。
「この世界でだけじゃない、ニッポンの高校生活でもそうだ。土日に野球に付き合わせてるときも、イルカ観《み》に連れて行かれたときも、海でバイトしようって誘《さそ》ってきたときも、実はお前ずっと知ってたんだな? なのにイルカプールで|溺《おぼ》れたおれを、本気で心配するふりなんかしてたんだ」
「心配したさ!」
「|今更《いまさら》おせーよっ! だって何処《どこ》に行っててどんな目に遭《あ》ってるか、ちゃんと把握《はあく》してたんだろ? そんなんで何が、海側の|壁《かべ》まで流されたらしくて、だ。ああくそっ、もう何が何だか」
「聞けよ! 心配したさ。いくら渋谷が魔族の一員だって知ってても、今まで僕は一緒《いっしょ》に移動できたわけじゃない。いや、王になる人だからこそ、きみが無事に着いたかどうか心配なんじゃないか」
「うるせーよ、もう。嘘ばっかだ」
これまでずっと。こく|普通《ふつう》の友人だと思っていた相手から、|特殊《とくしゅ》な単語を聞かされたのだ。ある意味ではこの世界にスタツアして、状況《じょうきょう》を告げられたときよりきつい。
会ったこともない美形外人に囲まれて、今日から貴方《あなた》が魔王ですと言われたのも、夢に見てうなされるくらい衝撃的だった。だがそれを受け入れることができたのは、全《すべ》てが非日常的だったからだ。あらゆる点で今まで育った世界と異なっていたから、新しい事実としてどうにか整理できた。
なのに今度は、昨日まで普通の友人だった相手が、王だの賢者だの口にしている。おれの中ではほんのついさっきまで、村田は中学の同級生だったのに、そいつがいきなり救国の英雄の生まれ変わりときた。
信じがたい、けれども新しい事実を|柔軟《じゅうなん》に受け入れ、折り合いをつけていくのとは違う。
ずっと友人だと信じていた相手は、今までおれを欺《あざむ》いていたんだ。
「欺こうとしたわけじゃない。言わなかったんだ。言えなかったんだよ」
「それを騙したっていうんだよ! そりゃそうだよな、言葉もしっかり話せるはずだ、こっちの世界で一番偉い賢者さまだもんな! 魔族とか人間とか……あの箱のことだって、誰より詳しく知ってるはずだ。十五になるまでオカルトにも|心霊《しんれい》現象にも興味なくて、SFもファンタジーも宗教もろくにっ、ろくに本さえ読んでなかったおれより、そりゃずっと、ずーっと詳しいはずだよな! それなのに……おれときたらバカみたいに……」
「渋谷」
焦《あせ》ったような村田に左手を振《ふ》り、首を斜《なな》めに傾《かたむ》けた。もう情けなさが度を超《こ》してしまって、まっすぐ座っている気力もない。
「いいんだ、別にもう。もうそんな|怒《おこ》ったってどうしようもないもんな。たださあ……村田はこの世界のこと何一つ知らないんだから、日本人が、黒目黒髪が危険だなんて判《わか》ってないんだからって……村田にはおれしかいないんだって……おれが何とか護《まも》らなきゃなんて、なーんてバカみたいなことをさ。みたいじゃなくて、ほんまもんのバカなことを……畜生《ちくしょう》、おれって、あ、頭わる……いい笑いもんじゃねーか」
「笑わないよ。感謝してる」
おれは泣きたくなっていた。こんなに疲《つか》れていなかったら、とっくの昔に号泣《ごうきゅう》だろう。皿でも本でも枕でも、手当たり次第に投げつけてやる。
完全な独《ひと》り相撲《ずもう》だったことが恥《は》ずかしくて、馬鹿野郎《ばかやろう》と|叫《さけ》んで逃げだしたい気分だった。何処《どこ》か遠くまで走っていって、もう二度と村田になんか会いたくなかった。此処《ここ》が地球じゃないと悟《さと》られないように必死で辻褄《つじつま》合わせしている様子や、自分の地位や立場を隠《かく》そうと焦る姿を、こいつはどんな気持ちで見ていたろう。
どれだけ嘲笑《あざけわら》っていたんだろう。
「笑うわけないだろ、感謝してたよ、何でこんなにいいやつなんだろうって、いつも申し訳なく思ってた。自分のことを告白できないまま、後ろめたく思ってた。もしかして、知らないで済むならそのほうがいいかとも思ったんだ、もしもこのまま、僕がしゃしゃり出るまでもなく事が治まって、きみが気付かずに済むのなら……そのほうがいいかもしれないって」
ぼんやり視線を漂《ただよ》わせた窓の向こうで、ヨザック曰《いわ》く「小競《こぜ》り合い」が起ころうとしていた。まだ剣《けん》を抜《ぬ》く者はいないが、穏やかな雰囲気《ふんいき》とは言い難《がた》い。
「だってそうだろ、僕には確信がなかった。僕の魂《たましい》は地球に飛んでかなり経つ。直前の女性が|眞魔《しんま》国にいたきみよりも、かなり長く転生を繰《く》り返してる。色々な国で生まれるたびに、何度か真実をうち明けた者もいる。前世の記億《きおく》がありますってね。二千年以上前の、それも異世界の記憶がありますって」
「……それで?」
笑いに|紛《まぎ》れた溜《た》め息をついた、
「病人|扱《あつか》いされたよ」
さすがに二千年前は厳しいだろう。百年単位なら場合によっては神様扱いだろうが、超《ちょう》ロングスパンとなると人々の想像力がついてこない。例えば公衆便所から流されたとか、自身が希有《けう》な経験をした人でなければ、素直に信じるのは難しい。
「もっとひどいときは|悪魔《あくま》呼ばわりだ。あれにはほんと参ったね、危《あや》うく火炙《ひあぶ》りにされるとこだった」
「ひ、火炙りって……」
「とにかく、何度かそういう経験をすれば、事実を話すのは賢明《けんめい》じゃないと気付く。誰にも、親にも、もちろん友人にも打ち明けなかった。きみにも……本当に言っていいのか……迷ってたんだ、今日までずっとね。でももし、最後のきっかけとして、もしきみが……渋谷が話してくれていたら、僕も告白しようと思っていたんだけど」
何を。
「きみの口から聞きたかったんだけど、残念ながら話してくれなかった」
「何を。まさか、まさか異世界旅行カミングアウト? 今日からおれは魔王ですなんて馬鹿げたことを、日本の友人に言えるわけないだろ!? 信じないだろ普通、あ」
「うん、馬鹿げてる。普通、信じない」
そうだよな。
おれも村田に話さなかった。同じ理由で村田もおれに話せなかったんだ。誰だって家族や友人に、変な奴《やつ》だと思われたくはない。おれは寄り掛かっていた椅子《いす》の脚に、後頭部を擦《こす》りつけた。それからゆっくりと膝《ひざ》を折って、短い掛け声で立ち上がった。
考えることも恐《おそ》れるものも、たいして変わりはしない。
「|所詮《しょせん》、十六歳だもんなあ」
「ああ」
「ちぇ」
「なんだよー」
ふざけるみたいに肩《かた》を小突《こづ》いたら、村田も片手でやり返してきた。同じ強さで。
同じ場所を。
青春映画なら野郎同士でも抱《だ》き合って、いわゆるハグとかしているところだ。でもお互《たが》いにこのシチュエーションで、そんな仰々《ぎょうぎょう》しいことはしない。日本人だから。
「……おれは魔王なんだってさ」
「うん」
「生まれはボストンで育ちは日本なのに、使ってる魂は魔族で、魔王になるべく育てられたんだってさ。笑っちゃうだろ?」
「ちょっとね」
「歴史とか経営学とか、そーいうの? なんつーの、帝王学《ていおうがく》? そんなの全然教わってないわけよ。知ってることといえば野球と…-貯球と野球のことだけ。大学どころか高校さえろくに行ってないんだぜ? なのにいきなり一国一城の主《あるじ》になれったってなあ。何百何千万の国民を治めろったってなあ。無茶苦茶だろ、なあ?」
「そうだよなー」
「お前はどうよ」
村田はもう一度、おれみたいにスポーツ雑誌と|漫画《まんが》しか読まないような現代高校生でも理解できるように、彼の立場を繰り返した。だよなとかひてーよななんて相槌《あいづち》をうちながら、コンビニ前での世間話よろしく慰《なぐき》め合った。次第《しだい》にどちらが大変か不幸|自慢《じまん》になったが、結局勝負はつかなかった。
言葉にしない部分では二人とも、不幸だなんて思っていなかったからだ。
おれは今、地球の、日本の親友と、魔族のことを話している。自分達が転がり落ちてゆく運命の路《みち》を、ドラマの感想みたいに語り合っている。村田とこんな関係になるなんて、中二の始業式には想像もしなかった。不意に胸に熱いものが流れ込み、血管を伝って指先まで行き渡《わた》った。何もかも話せる人が存在する、その心強さは|身体《からだ》中を温めた。
だが同時に、細いながらも残されていた、最後の逃《に》げ道を断《た》ち切った。
「……でも、現実なんだな」
「ん?」
「いよいよこれは本当に、現実なんだなあと思ってさ」
これまでおれは|誰《だれ》も知らないところで仲間に会い、誰も知らない国の王だった。|証拠《しょうこ》といえば胸に揺《ゆ》れるライオンズブルーの魔石だけだ。地球の、日本の真っ白い病室で何人もの医師に囲まれて、あれは夢だ、あなたは|幻覚《げんかく》を見ていたと|診断《しんだん》されれば、自分は正しいと言い切れる自信はなかった。
でも、もう違《ちが》う。
こちらの世界に仲間がいて、地球にもそれを知る友入がいる。
確かにこれは、現実だ。
誰にも疑わせない。
「もう夢じゃ済まされないんだ……あ、れ?」
硝子《ガラス》の向こうで銀の光が弧《こ》を描《えが》いた。鋼《はがね》の|煌《きら》めきだ。予想できることはただ一つ、誰かが剣を抜き放ったということだけだ。慌《あわ》てて窓に取りつくと、|甲板《かんぱん》にはフリンまでが登場している。
「やばい、なんか揉《も》めてるよ」
黄色がかったべージュの作業服の男が五人、沿岸|警備艇《けいびてい》から乗り移ってきていた。武器を抜いたのは下っ端《ぱ》らしき後列の若者で、彼が一番|余裕《よゆう》がなさそうに見えた。他《ほか》の連中はサイズモアやヨザックよりも、フリンを眺《なが》めてにやにやしている。
会話をやめて耳をすますと、シマロンの法律では女の貴任者がどうだとか言っている。
「あーあ、あいつらまた融通《ゆうずう》きかねーことを。奥さんが旦那《だんな》の代理でどこが悪いんだか」
「どうするつもり?」
「決まってる。こういうときこそレッツ・ノーマン・ギルビットだ。彼が仮面の男で本当に助かるよ」
おれは音を立てて机を押し、簡易。ハリケードを移動させた。ドアノブを手荒《てあら》に捻《ひね》るが、一定方向にしか回らない。
「あれ。おっかしーな、おれ鍵《かぎ》かけたかな……」
「僕はさっき言ったよ」
村田が右手で金属をちらつかせた。銅色の小さな鍵だ。少し|呆《あき》れたように頬《ほお》と口端《くちはし》を上げている。
「きみは、護《まも》られることに慣れなきゃいけない」
「だってあれ、フリンが女だから通さないって言ってるんだぞ!? 別にそんな危険なことじゃない、ちょっとノーマンのマスクで現れて、通行手続きをすればいいだけの話だ」
「|駄目《だめ》だ」
「っだーっもう!」
|扉《とびら》に足をかけ全力でノブを引っ張ってみるが、一向に開く気配はない。|諦《あきら》めて窓に走り寄り、木枠《きわく》を掴《つか》んで持ち上げようとする。あ、が、ら、な、い。こちらにも厳重な鍵がかかっていた。ドアと同じ物だろうか。
「村田ぁ」
「駄目だ。どうしてもというならこの僕をぶん殴《なぐ》ってでも|奪《うば》ってみせろ! とか格好いいこと言ってみたりして」
とてもそんな覚悟《かくご》があるようには見えない。おれは三秒くらい迷ってから、ア行で呻《うめ》いて椅子の背を掴んだ。
「なんだよ。『殴ったね親父《おやじ》にも殴られたことないのに』ごっこを期待してたのにー」
「友達殴るよりッ、家具投げるほうが、ずっと楽だッ」
それでもってずっと、気分もいい。
シンプルなデザインの|椅子《いす》の脚《あし》が、厚手の硝子を派手に割った。ちょうどいい、一度やってみたかったんだ暴力教室。それでも|頑丈《がんじょう》な木枠は残り、|身体《からだ》を出せる|隙間《すきま》はない。蹴《け》っても肩でタックルかけても折れない。
冷たく|湿気《しけ》った海風と共に、不穏《ふおん》な会話も流れ込んでくる。力ずくなんて単語が混ざっている。皆《みな》の者、落ち着け。その前におれ、自分が落ち着け。窓枠の中央に鍵穴があるが、手で叩《たた》いても壊《こわ》れそうにない。
「……お前が本当におれの親友の村田健なら……っ」
右手の人差し指の中で、銅色の鍵が止まる。
「王様だから大人しくしてろなんて言わないはずだ! 双黒《そうこく》の大賢者なら知らないけど」
「何をまた|根拠《こんきょ》のない……」
「ムラケンならこうだ。ちょっと笑って顔を上げて、こう」
村田はそのとおりにした。参ったねという顔で床《ゆか》まで視線を落とし、指先で金属を弄《もてあそ》ぶ。それから、小さく笑って顔を上げた。
「こうなると思った」
それは多分、生まれる前に聞いた他人の口癖《くちぐせ》だ。
彼は赤く光る鍵を投げてよこした。手を伸《の》ばせば届く五十センチの距離《きょり》を、山なりの軌跡《きせき》で飛び込んでくる。
口の中でもぐもぐと礼を言い、焦《あせ》りを抑《おさ》えて窓を開けた。硝子の欠片《かけら》がこぼれ落ちるが、細かい傷などかまっていられない。
「渋谷、マスクマスク」
「おっと」
銀の覆面《ふくめん》をきっちり|被《かぶ》り、後頭部で革紐《かわひも》をきゅっと結んだ。窓枠に片足をかけ、上半身を乗りだす。
「あんたら、待てーっ!」
全員の視線が|一斉《いっせい》に注がれた。つんのめりつつ飛び出すおれの背後で、村田が聞こえよがしに|呟《つぶや》いている。
「……ドアから出ればよかったじゃん」
大賢者様の仰《おっしゃ》るとおりだった。