いつも、旅の人が大勢とまっていて、とてもにぎやかでした。
ところで、この宿屋の亭主は、いったいどこで耳に入れたのか、近いうちに徳政令(とくせいれい→借金を帳消しにするおふれ)のあることがわかったので、心の中でニヤリと笑いました。
(こいつで、タンマリと、もうけてやろう)
亭主は、ひと部屋ひと部屋まわり歩いて、とまり客の持ち物を見せてもらいました。
「ほう、このわきざし(→刀)は、けっこうなお品で。じっくりと拝見(はいけん)いたしとうございますが、しばらくお貸しくださるまいか」
「この大きな包は何でござりましょう。ほほう、立派な反物(たんもの→着物のきじ)がこんなにもドッサリ。実は、娘や女房に買うてやりたいとぞんじますので、ちょいと、拝借を」
と、いう具合に、客の持ち物を、次から次と借りていきました。
客たちは亭主のたくらみなどは、夢にも知りませんので、
「お役にたてば、お安いこと」
「さあさあ、どうぞ」
と、気楽に何でも貸してくれました。
こうして、どの部屋からも目ぼしいものを借りまわったおかげで、主人の部屋には、客の品が山のようにたまりました。
さて、二、三日すると、思ったとおり、おかみのおふれが出ました。
役人がほら貝をふきたて、鐘を打ちならして、
「徳政じゃあー。徳政じゃ」
と、町をわめき歩きます。
町のあちこちに、徳政の立礼(たてふだ)がたちました。
そこで宿の亭主は、してやったりと、広間に客を集めてこういいました。
「さてさて、困った事になりもうした。この徳政と申すは、かたじけなくも、おかみからのおふれでございます。このおふれのおもむきは、天下の貸し借りをなくし、銭・金・品物などによらず、借りた物はみな、借り主にくだされます。さようなわけで、皆さまからお借りした品々は、ただいまから、わたくしの物になったわけでございます」
と、いかにも、もっともらしくいいました。
さあ、これを聞いた客はびっくりです。
たがいに目を見合わせて、とほうにくれ、中には泣き出す者もいて、たいへんな騒ぎです。
けれど、
「返してほしい!」
と、どんなに頼んでも、亭主は、
「なにぶん、このおふれは、わたくしかってのものではござりませぬ。天下のおふれ、おかみからのご命令。借りた物はみな、わたくしの物でございます」
と、いっこうに聞き入れません。
こうなっては、客たちも大事な物を亭主に貸したことをなげくばかりです。
ところが客の中に、頭の切れる男かおりました。
男はつかつかと亭主の前に進み出ると、こういいました。
「なるほど、天下のおふれとあれば、そむくことはなりますまい。そちらヘお貸しもうした物は、どうぞ、お受け取りくださるように」
この言葉に、ほかの客たちがあきれていると、男は続けて、
「ただ、こうしたおふれが出まして、あなたさまには、まことにお気の毒ではござります。だが、それもいたしかたのないこと。わたくしどもは、こうして、あなたさまのお宿をお借りしましたが、おもいもかけず、このたびの徳政。いまさらこの家をお返しすることも出来ぬことになりました。どうぞ、妻子(さいし→おくさんと子ども)、めし使い一同をお連れになって、いますぐこの家からおたちのきくださるよう」
と、おごそかな声でいいました。
さあ、今度は亭主の方がびっくりです。
「なんだと! この宿は、むかしからわしらの持ち物。いまさら人手に渡すことはならぬ。ならぬわい!」
と、まっ赤になってどなったのです。
「いやいや。ご亭主。あなたさまが、先ほどいわれたとおり、おふれはおふれ。この家はお借りもうした、わたくしどもの物です」
「そ、そんなむちゃな」
宿の亭主は怒って、奉行所(ぶぎょうしょ→今でいう、裁判所)にうったえ出ました。
すると、お奉行(ぶぎょう→裁判官)は、まじめくさった顔で、宿の亭主に、
「お前のいい分は通らぬぞ。借りた物は、借り主にくださるが徳政。お前は、妻子、めし使い一同をつれて、家からたちのくがよい」
と、いいわたしました。
宿屋を借りていたお客たちは、荷物こそは宿屋の亭主に取られましたが、宿屋を手に入れて、しあわせに暮らすことができました。