すべて世の中のありにくく、わが身と住みかとの、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし。いはむや、所により、身のほどに従ひつつ、心を悩ますことは、あげて数ふべからず。
もし、おのれが身、数ならずして、権門(けんもん)の傍らにをるものは、深く喜ぶことあれども、大きに楽しむにあたはず。嘆き切(せち)なるときも、声をあげて泣くことなし。進退安からず、起居(たちゐ)につけて、恐れをののくさま、例へば、雀の鷹(たか)の巣に近づけるがごとし。もし、貧しくして、富める家の隣にをるものは、朝夕すぼき姿を恥ぢて、へつらひつつ出で入る。妻子·僮僕(どうぼく)のうらやめるさまを見るにも、福家(ふくか)の人のないがしろなる気色(けしき)を聞くにも、心念々に動きて、時として安からず。もし、せばき地にをれば、近く炎上(えんじやう)ある時、その災(さい)を逃るることなし。もし、辺地にあれば、往反(わうへん)わづらひ多く、盗賊の難甚だし。また、勢ひあるものは貪欲(とんよく)深く、独り身なるものは人にかろめらる。財(たから)あれば恐れ多く、貧しければ恨み切なり。人を頼めば、身、他の有(いう)なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。世に従へば、身苦し。従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。
【現代語訳】
総じて世の中が生きにくく、わが身と住みかとが、頼りなくはかないようすは、これまで述べてきたとおりだ。まして、住んでいる場所により、身分に応じて心を悩ませることは、いちいち数え上げられるものではない。
もしも自分の身が、取るに足らない身分で、官位が高く権力のある人のそばに住んでいる者があったとしたら、深く喜ぶことはあっても、大いに楽しむことはできない。また、嘆きが痛切なときであっても、同じように声をあげて泣くことはない。立ち居ふるまいも気安くできず、何をするにも隣家を恐れてびくびくしているのは、たとえていえば、雀が鷹の巣に近づいているようなものだ。もしも貧乏で、金持ちの家の隣に住む者があるとすれば、明けても暮れてもみすぼらしい自分の姿を恥じて、こびへつらいながら自分の家を出入りするようになる。自分の家族や召使いが、隣家をうらやましがっているのを見るにつけても、また金持ちの家の者が、こちらを無視して軽蔑しているようすを聞くにつけても、自分の心は絶えず動揺して、少しの間も心が安らかにならない。もしも、人家がひしめく狭い土地に住んでいれば、近所に火事が起こると延焼を免れることはできない。もしもへんぴな土地に住んでいれば、都への行き来に苦労が多く、盗賊の被害にあうことも多くなる。また、権勢のある者はあくまで欲が深く、頼る人が少なく勢力のない者は人に軽蔑される。財産があると心配が多く、貧しいと嘆きが大きい。また、他人を頼りにすると、自分の身は他人の所有物となる。人の世話をすると、愛情を注ぐのに気苦労する。世間の習慣に従うと、身が窮屈になる。従わないと、気が狂っていると見られる。いったい、どんな場所に住んで、どんな仕事をしたら、少しの間でもこの身を安住させ、心を休めることができるのだろうか。