現代語訳
逢坂山(おおさかやま)の関所の番人に(通行を)許されて(東国の方へ向かってから)、すでに秋が訪れた山の紅葉の(美景も)、見過ごせなくなり、(そのまま諸国行脚をつづけることにしたが、(なかでも)浜千鳥が砂浜に降り立って足跡をつけて遊ぶ鳴海(なるみ)潟(がた)、富士山の(雄大な)噴煙、浮島が原、清見が関、大磯小磯の浦々の(風光)、(更に)紫草の美しく咲く武蔵野の原、(下っては)、塩竃(しおがま)の海の穏やかな朝景色、象潟(きさがた)の漁師の(ひなびた)苫(とま)ぶきの家々の眺め、佐野の船橋、木曽の桟橋(かけはし)などのありさまは、(どれひとつとして)心惹(ひ)かれないところはなかったが、(そのうえ)なお西国の歌名所をみたいものだと、仁安三年の秋には、葭(あし)の花散る難波(なにわ)を経て、須磨・明石の浦を吹く汐風を身にしみじみと感じながら、(旅をつづけて四国にわたり)、讃岐(さぬき)の真(み)尾坂(をざか)の林というところに、しばらく逗留することにした。(これとても野宿などを重ねてきた)長旅の疲れを休めるためでなく、心の中に仏を求め修業すべき拠り所とする庵なのであった。