天皇崩御(かみがくれ)給ひては、兄弟(はらから)相譲(あひゆず)りて位に昇(のぼ)り給はず。
三とせをわたりても猶(なほ)果(は)つべくもあらぬを、宇治の王(きみ)深く憂(うれひ)給ひて、『豈(あに)久しく生(いき)て天(あめ)が下を煩(わずらは)しめんや』とて、みづから宝算(よはひ)を断(たた)せ給ふものから、罷事(やんごと)なくて兄の皇子(みこ)御位(みくらゐ)に即(つか)せ給ふ。
是天業(これてんげふ)を重んじ孝悌(かうてい)をまもり、忠(まこと)をつくして人(にん)欲(よく)なし。
堯(ぎゃう)舜(しゅん)の道といふなるべし。本朝(ほんてう)に儒教(じゆけう)を尊(たふと)みて専(もはら)王道(わうだう)の輔(たすけ)とするは、宇治の王(きみ)、百済(くだら)の王(わ)仁(に)を召(めし)て学(まな)ばせ給ふをはじめなれば、此の兄弟(はらから)の王(きみ)の御心(みこころ)ぞ、即(やがて)漢土(もろこし)の聖(ひじり)の御心ともいふべし。
現代語訳
西行は少しも恐れず、更に座をにじり進めて言った。
「君主(おかみ)の仰せのことは、人の道の道理を名目にしながら、私利私欲を免れてはおりませぬ。遠い唐土(もろこし)の例を引くまでもなく、我が国でも昔、応仁(おうじん)天皇は、兄皇子の大(おほ)鷦鷯(ささぎ)王子(みこ)をさしおいて、末弟の宇治の王子(みこ)を皇太子にされました。
応仁天皇が崩御されて後、ご兄弟は互いに譲り合い、どちらも帝位にお即(つ)きにならなかった。三年の歳月を過ごしても、この譲り合いが果てそうにもなかったのを、宇治の王子(みこ)は深くお悩みになって「どうしてこれ以上生きて天下国家を煩わせられようか」と、自らお命をお断ちになったので、やむをえず兄皇子の大(おほ)鷦鷯(ささぎ)王子(みこ)が皇位にお即(つ)きになったのです。
これこそ万世一系の天業を重んじ、孝悌の道を守り、誠実を尽くして私欲がありませぬ。
堯(ぎゃう)舜(しゅん)の道というものでありましょう。わが国では古来、儒教を尊重してもっぱらこれを王道の補佐とするのは、この宇治の王子(みこ)が百済の王(わ)仁(に)博士を召され、学ばれた最初としますからには、このご兄弟皇子の御心こそが、そのまま中国の聖人の御心といえるのであります。