今からざっと一〇〇〇年前、さしも太平をうたわれた唐の治世も、二〇世、二九〇年をもって終わりを告げ、世は五代と呼ばれる時代に移りました。このことわざは、当時を物語る史書『五代史』に記されています。すなわち、�五代一〇国のうちの一つ、|※[#「門<虫」、unicode95a9]《ビン》の国(今の福建省)の王様、曦《ぎ》が酒宴の席で、周維岳《しゆういがく》なる家臣の飲みっぷりのよさに目を止め、
「維岳よ、おまえはからだの小さな割にずいぶん飲めるな」並居る家臣の中から声あり、
「酒に別腸あり。王よ、酒量はからだの大小にかかわりませぬ」
「左様か、しからば維岳をつかまえ、別の部屋に移し、お腹を割《さ》いて、その酒腸とやらを視たいものじゃ」と申して、家臣を促した。�
いかに王とは申せ、維岳こそいい迷惑、酔興の度がすぎます。それにしても、「酒は礼に始まり、乱に終わる」もののようです。酒量はからだの大小に関係がないとは言っても、これが関取やプロレスラーともなると、話はちがってきます。ある関取などは一晩に三升ぐらいは軽く飲み、並の酒飲みの遠く及ぶところではありません。
また、「酒に別腸あり」と言いますが、アルコールは水とちがい、おもに胃壁《いへき》から吸収されます。それから肝臓に送られ、ここで酸化され、炭酸ガスと水とに分解され、それぞれ肺と肝臓から体外へ——という段取りになります。すきっ腹のとき、お酒をガブ飲みすると、酔いが早く回るのも、「待ってました!」とばかり、胃の働きがフル回転するからです。
肝臓の酸化分解の働き、肺、腎臓の排泄の働きが十分なら——つまり、内臓のそれぞれの処理工場が正常に働き、処理能力があれば、たとえアルコール分が体にはいっても酔わないということになります。ただし専門医の話によれば、ふつうの人の肝臓の処理能力は一時間にアルコール一五CC程度、酔わずにすむ酒量と言えば、(もちろん個人差はある)日本酒だと一時間に二合以内。それ以上になると、血液の中に流れ出して全身をかけめぐり、自律神経に働きかけて、顔を赤らめたり、動悸《どうき》を早めたり、大脳の新しい皮質をマヒさせ、本能のおもむくままにさせたりします。これがいわゆる「酔い」の正体。このように「酔い」というのは、飲んだ分量だけの問題ではなく、血液中のアルコール濃度いかんということができます。
「人、酒を飲む。酒、酒を飲む。酒、人を飲む」と、むかしから言われておりますが、人が酒を飲んでいる分には、酒は心の憂さを払い、薬ともなり、すべてが心楽しくなります。ところが、酒、酒を飲む段になると、次第に道徳観念が薄れ、「酒が言わせる悪口雑言」の状態となり、中にはケンカを始める者も出てきます。さらに酒、人を飲む状態ともなると、運動神経がやられフラフラになり、本心を表わし「ラッカロウゼキ、ボウジャクブジン」のふるまいをしたり……という次第になります。「酒は飲むとも飲まるるな」——お酒飲むのもほどよく、都々逸の文句じゃござんせんが、�酒はほろ酔い娘は二八花は桜の盛りまえ�といきやしょう。
「維岳よ、おまえはからだの小さな割にずいぶん飲めるな」並居る家臣の中から声あり、
「酒に別腸あり。王よ、酒量はからだの大小にかかわりませぬ」
「左様か、しからば維岳をつかまえ、別の部屋に移し、お腹を割《さ》いて、その酒腸とやらを視たいものじゃ」と申して、家臣を促した。�
いかに王とは申せ、維岳こそいい迷惑、酔興の度がすぎます。それにしても、「酒は礼に始まり、乱に終わる」もののようです。酒量はからだの大小に関係がないとは言っても、これが関取やプロレスラーともなると、話はちがってきます。ある関取などは一晩に三升ぐらいは軽く飲み、並の酒飲みの遠く及ぶところではありません。
また、「酒に別腸あり」と言いますが、アルコールは水とちがい、おもに胃壁《いへき》から吸収されます。それから肝臓に送られ、ここで酸化され、炭酸ガスと水とに分解され、それぞれ肺と肝臓から体外へ——という段取りになります。すきっ腹のとき、お酒をガブ飲みすると、酔いが早く回るのも、「待ってました!」とばかり、胃の働きがフル回転するからです。
肝臓の酸化分解の働き、肺、腎臓の排泄の働きが十分なら——つまり、内臓のそれぞれの処理工場が正常に働き、処理能力があれば、たとえアルコール分が体にはいっても酔わないということになります。ただし専門医の話によれば、ふつうの人の肝臓の処理能力は一時間にアルコール一五CC程度、酔わずにすむ酒量と言えば、(もちろん個人差はある)日本酒だと一時間に二合以内。それ以上になると、血液の中に流れ出して全身をかけめぐり、自律神経に働きかけて、顔を赤らめたり、動悸《どうき》を早めたり、大脳の新しい皮質をマヒさせ、本能のおもむくままにさせたりします。これがいわゆる「酔い」の正体。このように「酔い」というのは、飲んだ分量だけの問題ではなく、血液中のアルコール濃度いかんということができます。
「人、酒を飲む。酒、酒を飲む。酒、人を飲む」と、むかしから言われておりますが、人が酒を飲んでいる分には、酒は心の憂さを払い、薬ともなり、すべてが心楽しくなります。ところが、酒、酒を飲む段になると、次第に道徳観念が薄れ、「酒が言わせる悪口雑言」の状態となり、中にはケンカを始める者も出てきます。さらに酒、人を飲む状態ともなると、運動神経がやられフラフラになり、本心を表わし「ラッカロウゼキ、ボウジャクブジン」のふるまいをしたり……という次第になります。「酒は飲むとも飲まるるな」——お酒飲むのもほどよく、都々逸の文句じゃござんせんが、�酒はほろ酔い娘は二八花は桜の盛りまえ�といきやしょう。