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食物ことわざ事典175

时间: 2020-01-15    进入日语论坛
核心提示:酒・飯・雪隠 お客を家に招いて|おもてなし《ヽヽヽヽヽ》をするとき、この三つには特に気を配れということわざ。茶の湯では「
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酒・飯・雪隠

 お客を家に招いて|おもてなし《ヽヽヽヽヽ》をするとき、この三つには特に気を配れということわざ。茶の湯では「亭主に三つの馳走《ちそう》あり、酒・飯・雪隠気をば付くべし」と強調しています。
酒は悪酔いしないよう上質の酒を、ほどよく温めて。ごはんはお招きした人の好みや年齢に合わせて、ほどよいやわらかさに、しかもタイミングよく。雪隠(手洗い)は、常の日よりも念入りに掃除を行届かせ、気持ちのよいように、細かな心づかいを忘れてはなりません。
雲州松江の藩主で、のち石州流不昧派の開祖と仰がれた松平不昧の『茶礎《ちやそ》』という書物に「客の心になりて亭主せよ。亭主の心になりて客いたせ」ということばがありますが、もてなしの極意《ごくい》を示した味わうべき金言だと思います。主人は客の気持ちをよく汲《く》んで、その好むところを充《み》たし、客はまた主人の心を心として、十分にその厚意を受けて、主客一心同体となって、行ないをともにするところに、いわゆる「一|座建立《ざこんりゆう》」の境地が開けてまいります。
心入れ、思い入れ、心づかい、思いやり、心づくし——などと、いろいろにいいますが、茶の湯では、特に繊細な心づかいが、些細なことのはしばしに籠《こも》っていることを尚《とうと》びます。そのもっとも端的に表わされるのが酒・飯・雪隠であるともいえましょう。
あくまでも現実的なものへ徹底してやまぬ茶の湯は、もっとも現実的な飲み食いの行としての「茶飯事」とともに、これを排泄する行としての雪隠、手洗いの行に及ばずにはおきません。茶の本家筋にあたる禅では、雪隠も仏の道を行ずる道場とされ、道元は「厠屋《かわや》に威儀《いいぎ》を行ず」といって、用便の作法まで、こと細かに記しています。
また、「厠屋も仏転法輪《ぶつてんほうりん》の一|会《え》なり」ともいって、雪隠も神聖な「清」の行の場とし、雪隠の係りの人を「浄頭《じようとう》」と呼んで、これを重視しております。この考え方に立つ茶の湯において雪隠をなおざりにしないのは当然のことといえましょう。茶の湯においては、雪隠のことは「浮き世の塵《ちり》の一切を捨てる行」と考え、掃除も単に掃《はら》い除《のぞ》くという消極的なものではなく、雪隠に新たな美を創造しようとすらいたします。「砂雪隠」のこしらえや、「雪隠拝見」の行事という創作は清浄を重んじる茶の湯の実践内容を象徴したもので、亭主の心入れがいかに隅々にまで行届いているかを示すものであります。
ある有名な茶人は、これも有名な茶人の茶事に招かれ、清潔であるべき手洗いの一隅にクモの巣の取り残しがあるのを見て、気にかかってならず、他のあらゆるゼイ(贅)をつくしたもてなしも、その心から生まれたものと思うと汚ならしく、二度とその人の茶事へは行かなかったと聞いております。
料理に造詣が深く、茶の湯のこころをたいせつにした魯山人は、日ごろ口グセのように「台所と手洗いを、いつ他人に見られても恥ずかしくない家をもった人が趣味人というもの」と言っておりました。
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