「さあ、……女のひとはみんな一度は逃げ出したでしょうね。それに、洪禅さんが血を吐いたとき、水をとりに走ったひともありますし……でも、だれとだれが座敷を出て、だれとだれが出なかったか、そこまでは責任をもってお答えすることはできませんわ」
「なるほど、それじゃ会席膳の問題は、もう一度田治見家の台所へ行って、きいてみることにして、さて、問題は今朝のことですがね。辰弥君は昨日、梅幸尼からなにか話があるといわれて訪ねてきたのだという話でしたが、その話の内容というのについて、なにか心当たりはありませんか」
「ありません」
言下に、私はキッパリ答えた。答えざるを得なかったのだ。私自身その問題について思い迷うているのだから。ただ、この問題について、つきとめようと思えばつきとめる方法が、ほかにないこともない。それは麻呂尾寺の住持、長英さんにきいてみることだ。あのとき梅幸尼はこういったではないか。このことは私と麻呂尾寺の長英さんのほかには、だれも知らぬことですと。……しかし、私はなんとなく、それを警部に打ち明けたくなかった。私自身でいつか長英さんに会ってきいてみたかったのだ。
警部は疑わしそうに、私の顔色を読みながら、
「どうも妙ですね。みんな大事の瀬戸ぎわの、いまひと息というところで殺される。梅幸尼はいったいきみに、何を話したかったのか。……いや、それよりも辰弥君、きみはどうもこんどの事件の場合、殺人に縁がありすぎるよ。きみの行くさきざきで人殺しが行なわれるじゃないか」
警部に指摘されるまでもなく、私自身それを感じて、心が重くなっていたのだ。
「ほんとに不幸な偶然です。さっきも濃茶の尼にそれをいわれたとこでした」
「濃茶の尼?」
突然、つぎの間から声をかけたのは、警部のつれてきた刑事のひとりである。
「あんたは今日、濃茶の尼に会ったのかね」
「はあ、ここへ来る道で……ちょうど西屋の勝手口のところで会いました」
「濃茶の尼はどの方角からやってきたかね。ひょっとすると、この尼寺のほうから……?」
「はあ、そういえばそのようでした」
「おいおい、川瀬君、濃茶の尼がどうかしたのかね」
警部が口をはさんだ。
「いえね、警部さん、台所の板の間から、ほら、その濡ぬれ縁へかけて、べたべたと埃ほこりまみれの足跡がいっぱいついているんですよ。だれかわら草ぞう履りをはいてきたやつが、台所からあがったにちがいないのですが、梅幸尼というのはたいへんきれい好きなひとだったから、気がつけばすぐふいてしまうはずです。だからその足跡は梅幸尼の死後、ついたものだろうと思うのですが……」
刑事の言葉にはじめて気がついたのだが、そういわれてみれば、足跡の主は台所から座敷へ入り、濡れ縁へぬけたらしく、梅幸尼の枕元からひっくりかえったお膳のあたりへかけて、べたべたと白い足跡がついていた。畳の上ではあまり目立たなかったけれど、板の間にくっきりついたその足跡は扁へん平ぺい足そくのさきのひらいた、子どものように小さい足跡だった。私はすぐに、さっきあった濃茶の尼の尻切れ草履をはいた、埃まみれの足を思い出した。
「ふうむ、すると濃茶の尼が辰弥君や森さんより、ひとあしさきに、この尼寺へ入りこんだというのかね。しかし、それならば、あの尼さん、なぜ騒ぎ立てなかったろう」
「それはね、あの尼め、うしろ暗いことをやっているからですよ」
「うしろ暗いことというと?」
刑事はうす笑いをうかべて、
「あいつは妙な盗癖をもってるやつでしてね。なに、大それた盗みをやるわけじゃないんですが、ひとが見てなきゃそこらにあるものを、手当たりしだい持ってく癖があるんです。賽さい銭せん箱ばこからお賽銭をくすねたり、お墓の供く米まいをぬすんだり、まあ、その程度の盗みだから、村の連中も、たいていは見ぬふりをしてるんですが、どうかすると、ひとの洗たく物などを平気で持っていって着ていることがあるんで、問題を起こすこともあるんです。梅幸尼はそれを不ふ愍びんがって、いつもいろいろとりなしてやってたもんですが、濃茶の尼はそれをまたいいことにして、梅幸尼の眼をぬすんで、なんでもかんでも持ってったもんです。相手が梅幸尼のことだから、いえばハイハイとくれるにきまっているものでも、盗んで持っていくんです。つまり、品物そのものよりも、盗むということに興味をもっているんですね」
金田一耕助は興味ふかげに刑事の話をきいていたが、
「それで、今日、濃茶の尼がこの庵室から、何か持っていった形跡がありますか」
「ええ、もう、台所へ行ってごらんなさい。めちゃくちゃでさあ。糠ぬかみそのなかまでかきまわしてやあがる。濃茶の尼め梅幸尼が死んでるのを見て、もうこんなものいらんだろうと、勝手に理屈をつけやがったにちがいありません。辰弥さん、あんたが濃茶の尼に出会ったとき、尼さん、大きな荷物を持ってやあしませんでしたか」
「はあ……」
私は美也子と顔を見合わせた。
「そういえば、大きなふろしき包みを背負っていました」
「ええ、そう、その上にひとからげの荷物をさげていたわね」
「そ、そ、そ、そして、それは、あ、あ、あ、あなたがたが、ここ、ここへ来る直前だったというんですね」
金田一耕助は、だしぬけにガリガリ、バリバリ、またしても頭の上の雀すずめの巣をかきまわしはじめたが、そのとき、私はどうしてこの奇妙な探偵さんが、あのように興奮したのか、さっぱりわけがわからなかった。しかしあとになって考えると、濃茶の尼の盗癖と、彼女が私たちよりひとあしさきに、尼寺へ盗みに入ったということがこの事件全体に大きな意味をもっているのだった。