典子の恋
「ああ、典子さんですか。びっくりしましたよ」
相手が典子だとわかったので、私はいくらかほっとした。相手が無邪気な典子ならば、なんとかこの場の様子をいいくるめられそうな気がしたからである。
典子は、
「ふふふ」
と、口のうちで笑って、
「あたしこそびっくりしてよ。だって、だしぬけに、こんなところからとび出していらっしゃるんですもの。意地悪ね」
と、典子は珍しそうに滝の向こうをのぞきこみながら、
「どうしてこんなところに隠れていらしたの。この穴のなかに何かあって?」
典子は私が抜け孔の、向こうがわからやってきたとは気がつかぬらしい。ちょっとした気まぐれから、穴のなかへもぐりこんでいたのだろうと、思いこんでいるらしいのだ。むろん、私にとってはそのほうが好都合なので、できるだけ、彼女に調子をあわせることにした。
「いえ、なに、ちょっと入ってみたんですよ。なんにもありませんよ。ただじめじめした洞穴ですよ」
「そうね」
典子はすぐに洞穴をのぞくことをやめ、私の顔を仰ぎながら、瞳ひとみをかがやかせて、
「でも、どうしていまごろ、こんなところへいらしたの。何か御用がおありだったんですの」
「いや、別にそういうわけじゃなかったんですがね。なんだか気持ちがいらいらして、眠れなかったものですから夜風にあたったら気持ちがよかろうと、つい、ふらふらととび出してきたんです」
「そうお」
典子はちょっと失望したようにうなだれたが、すぐ、また快活に顔をあげると、
「でも、まあ、いいわ。お眼にかかれてうれしいわ」
私には典子の言葉の意味がよくわからなかった。びっくりして、星明かりのなかにほのじろく浮かんでいる典子の横顔を見守りながら、
「典子さん、それ、どういう意味?」
「ううん、なんでもないの。ねえ、うちへ寄ってらっしゃらない? おうち、いまだれもいないのよ、あたし、寂しくって寂しくって……」
「慎太郎さんはいないのですか」
「ええ」
「どこかへお出かけ?」
「さあ……あたしよく知らないのよ。このごろ毎晚、いまごろになると、どこかへ出かけるのよ。どこへ行くのか尋ねても、黙って教えてくれないの」
「典子さん」
「なあに」
「あなたはいまごろ、どうしてこんなところを步いてたの」
「あたし?」
典子は大きな眼をあけて、まじまじと私の顔をながめていたが、やがてふうっと下を向くと、右足で土を蹴けりながら、
「あたしねえ、寂しくて、寂しくてたまらなかったのよ。それで、いろんなことを考えてると、なんだか急に悲しくなって……とてもひとりでおうちにいられないような気がしてきたの。それで夢中でとび出して、そこらを步きまわっていたのよ」
「典子さんのおうちどこ?」
「そこよ、すぐ下に見えてるでしょう?」
私たちの立っているところは、坂の途中をきりひらいた狭い、幅二、三尺の険しい道で、うしろの崖がけの上もまえのゆるやかな傾斜も、いちめんに深い竹やぶでおおわれている。その竹やぶをすかして、斜め下のほうに小さいわらぶきの屋根と、白く灯の色のさした障子の上のほうだけが見えた。
「ねえ、寄ってらっしゃいよ、あたし、寂しくてたまらないんですもの」
典子は私の指を握ってはなさない。私はたいそう当惑したことだ。いかに典子がすすめても、彼女の家へ寄る気はなかったが、さりとて、そのまま洞穴のなかへもぐりこむこともできなかった。なんとかして、典子をこの場からつれ去らねばならぬ。
「おうちへ寄るのは困るのですが……では、どこかそこらで休んでいきましょう」
「あら、どうしておうちへ寄るの困るの?」
「慎太郎さんがかえってくるといけないから……」
「あら、どうして……?」
典子は無邪気な眼を見はって、私の顔をのぞきこむ。彼女には他人の思惑だの、世間のうわさなどということは、いっこう気にならないらしいのだ。いや、気にならぬというよりも、はじめから、そんなことは知らないのだ。典子は生まれたての赤ん坊のように、天てん真しん爛らん漫まんの女であった。