慎太郎の顔
私たちはいったいそこに、どのくらい座っていただろうか。あいにく時計を忘れてきたので、サッパリ時間がわからなかったが、かなり長いあいだ座っていたと思う。それというのが、典子がなかなか放してくれなかったからである。私たちのあいだには、特別多くの話題があったわけではないが、典子はただ、私のそばに座っているだけで満足らしく、つぎからつぎへと、思い出話などを語ってきかせた。それはいずれも童話のように無邪気で毒気のない話で、聞いていると、私はいつか、ささらのように裂けてとがった神経が、不思議になごんでいくのをおぼえた。
八つ墓村へやってきてから、こんなことははじめてだ。いつも怒った針鼠はりねずみのように、神経の針をとがらせてひとの顔色ばかりうかがっていた当時の私にとっては、それはこのうえもなく安らかないっときだった。私はいつかうっとりとして縷る々るとつづく典子の話に耳をかたむけていたが、そのときどこかで、柱時計の鳴る音がしずかにひびいた。かぞえてみると十二時だ。
私はびっくりして、草っ原から立ち上がった。
「ああ、もう十二時だ。あまりおそくなるといけないから、ぼくはもうかえります」
「そうお」
十二時ときいてさすがに典子もとめなかったが、それでも名残り惜しそうに、
「でも、うちのお兄さん、まだかえらないわ」
「いったい、お兄さんはどこへ行くんです。そんなに毎晚……」
「知らないわ。昔は碁が好きでよく夜更かしをしたもんだけど、こっちへかえってからは、どなたともおつきあいしないから、碁をうちに行くところもないのにねえ」
典子はなんの屈託もなく、兄の夜步きについても、かくべつ心配しているようなふうもなかったが、私はそのときふいと、胸の騒ぐのをおぼえた。慎太郎はいったい毎晚、どこへ出かけていくのだろう。
「そしてお兄さん、いつも何時ごろにかえってくるの」
「さあ、あたしよく知らないのよ。いつもあたしが寝てからかえってくるんですもの」
「典子さんは毎晚、何時ごろに寝るの?」
「たいてい、九時か十時には寝るわ。今夜はとくべつなのよ、でも、起きててよかったわ。こうしてお兄さまにお眼にかかれたんですもの。ねえ、お兄さま、あしたの晚も来てくださるわね」
典子の言葉の調子をきくと、当然明晚も私が来るときまっているもののようであった。しかもそれがあまり無邪気なので、私にはどうしても否とはいえなかった。
「そうね、来てもいいよ。しかし、雨だったらだめだよ」
「雨だったらしかたがないけれど……」
「その代わり典子さん、約束しておくれ。今夜ぼくにここで会ったことを、慎太郎さんに絶対にいわないこと」
「あら、どうして」
典子はびっくりしたように、目玉をくるくるさせる。
「どうしてでも。今夜のことばかりじゃない。明日ここで会うこともいっちゃいけないよ。でなかったら、ぼくはもう二度と来ないから」
このおどしはよくきいた。
「ええ、いいわ。あたしだれにもいわないわ。その代わりお兄さま、毎晚来てくださる?」
女というものは、生まれながらの外交官だ。典子はたくみに一步前進した。
私は苦笑しながら、それでもしかたなく、
「ああ、来るよ」
「きっと」
「うん、きっと来る。さあ、慎太郎さんがかえってくるといけないから、典ちゃんはそろそろおかえり」
私の典子のよびかたは、いつか典ちゃんにかわっていた。典子はすなおにうなずいて、
「ええ、それじゃ、お兄さま、さようなら」
「さようなら」
典子は五、六步坂をくだるとふりかえって、
「さようなら」
「ああ、さようなら」
典子はまた坂を下りかけたが、何を思ったのか、上手のほうを向いたまま、あらと叫んで立ち止まった。
「ど、どうしたの、典ちゃん」
何かしら、私はドキッとした思いで、同じように上手のほうをふりかえった。
さっきもいったように、そのとき私たちの立っていたのは、襞になった窪地のへりだったが、この窪地は半丁ほど上手で袋のようにつぼんでおり、そこに部落と離れて、一軒小さな家が建っているらしく、しめきった障子にあかあかと電気の光がさしていたが、私がふりかえった瞬間、その障子のうえをちらと黒い影が横切った。それはほんの一瞬の印象だったので、ハッキリとはわからなかったけれど、洋服を着て、鳥打帽をかぶった男のようであった──と、思う間もなく電気が消えて、障子の上はまっくろになった。