「まあ!」
典子は息をのんで立ちすくんでいたが、すぐ私のところへ駆けのぼってくると、
「お兄さま、あれ、どうしたんでしょう」
「なに、典ちゃん」
「さっきの影よ、お兄さまもごらんになったでしょう。鳥打帽をかぶった男のひとのようだったわね」
「うん、でも、それがどうかしたの」
「だって、おかしいわ。あれ、尼寺なんですもの」
何かしら、ドキッとする思いで、私はもう一度そのほうをふりかえったが、電気の消えたその尼寺は、星明かりのなかで、ただくろぐろと沈黙している。
「典ちゃん、それじゃ、濃茶というのはこのへんなのかい」
「ええ、そうよ、あれ、妙蓮さんの尼寺よ。妙蓮さんのところに、いまごろ男のひとがいるなんておかしいわ。それにどうして電気を消したんでしょう」
「電気を消しちゃいけないのかい」
「ええ、だって、妙蓮さんはいつも電気をつけっぱなしで寝ているわ。電気を消すと寝られないんですって」
何かしら私もあやしい胸騒ぎをおぼえた。
「濃茶の尼は今日警察へ呼ばれたんじゃないの」
「ええ、呼ばれたわ。でも、ひとことも口をきいてやらなかったと、いばってかえってきたわ。あのひとはおこらせちゃだめなのよ。おこらせたら、知ってることだっていやアしないわ。でも、どうしたんでしょうね。電気を消したりして……それにさっきの男のひと、なんでしょう」
私はふと、みだらな連想のために、顔のあからむのをおぼえた。蓼たで食う虫ということもある。兎口の尼のもとにだって、忍んでいく男がないこともないだろう。しかし、典子にそんなことはいえなかった。
「なあに、なんでもないさ。だれかお客さんがあるんだろう」
「だっておかしいわ。お客さまがあるのに電気を消したりして……」
「いいからおかえり、ぐずぐずしていると一時になるよ」
「そうお、では、お兄さま、おやすみ」
「おやすみ」
典子はいくどもふりかえりながら、こんどはまっすぐに坂をくだっていった。その姿が見えなくなるのを待って、私はやぶのなかにある、崖下の道へもぐりこんだが、そのとき、上のほうから急ぎ足にくだってくる足音をきいて私はギョッとして立ち止まった。
だれかが丘をくだってくる。……
私はそっと崖の角から、上手のほうをのぞいてみた。しかし、道が曲がりくねっているので、足音の主はまだ見えなかった。しかし、たしかにここへおりてくるのだ。しかも、妙にあたりをはばかるような忍び足で……、私はすばやく竹やぶのなかへもぐりこむと、下草のなかへうずくまった。こうしていれば、向こうから見られる心配はなく、しかし相手の顔は思う存分見ることができるのだ。
足音はしだいにこちらへ近づいてくるが、近づくにつれて、だんだん速度がにぶってくる。あたりを警戒している証拠だ。私は心臓がガンガン鳴るのをおぼえた。つばがかわいてのどがひりつく感じであった。
やがて足音は私のそばまでやってきた。まず、道の上に長い影が現われ、ついで影の主が現われたが、そのとたん、私はいっとき、心臓の鼓動が停止するかと思われた。
影の主は慎太郎であった。慎太郎は鳥打帽をかぶり、作業服の腰に手ぬぐいをぶらさげ、地下足袋をはいた脚にゲートルをまいていた。おまけに、小こ脇わきにつるはしをかかえているではないか。それだけでも、ひとの眼を驚かすに十分だったのに、しかも、おお、そのときの慎太郎の顔──
大きく見ひらかれた眼は、いまにも眼がん窩かからとび出しそうで、おまけに異様に熱気をおびてギラギラと輝いている。くちびるは奇妙にひんまがり、わなわなふるえ、額から小鼻へかけて、脂汗でギタギタと光っていた。
人間というものは、ひとと対座しているときは、なかなか腹の底にあるものを顔色に現わさぬものだが、だれもいないと思ったとき、日ごろ、腹の底にたたんであるものが、ひょいと顔に出るものである。そのときの慎太郎がそれだったのだ。しかもそういう慎太郎の顔から、そのとき私のうけた感じは、なんとも救いようのないほど、陰惨にして、凶暴な印象だった!
私はあまりの恐ろしさに、心臓が氷のように固く、つめたくなるのをおぼえた。危うく声を立てるところであった。もしもあのとき声を立てたら、あの鋭いつるはしのきっさきが、まっこうから私の頭のてっぺんめがけて、ふりおろされていたのではあるまいか。
しかし辛うじて私は声を立てることをおさえたし、したがって、慎太郎も私のいることに気がつかなかった。文字どおり抜き足差し足しのび足で慎太郎は私のまえを通りすぎると、やがて、その姿はやぶのかなたに見えなくなった。
私がやぶのなかから這はい出したのは、それからよほどたってからのことだった。私はビッショリ汗にぬれていた。膝頭ひざがしらがガクガクふるえる。めまいがするような気持ちだった。
それでも私はしばらくたって、気分のおさまるのを待ってから、また、あの滝の奥の洞どう窟くつにもぐりこんだ。そして、それからあとは別に述べるようなこともなく、無事に自分の部屋へもどってきたが、その夜、なかなか寝つかれなかったことはいうまでもあるまい。