久野おじの逃亡
昨夜おそくまで寝つかれなかったので、翌日は思わず朝寝坊をしてしまった。眼がさめると雨戸のすきから明るい朝の日差しがさしている。枕もとの時計を見ると九時だった。
私はびっくりしてとび起きると、寝床をたたみ、雨戸を繰りはじめたが、その物音をきいて、姉の春代が母屋のほうから、あわただしい足どりでやってきた。
「お早うございます。つい、朝寝坊しちゃって……」
あいさつをしたが、姉はだまって、まじまじと私の顔をながめている。おやと思って私は姉を見返した。姉はなんとなく強張った表情で、さぐるように私を見ていたが、やがて、
「お早うございます」
と、しゃがれた声でいい、それから、
「辰弥さん、ちょっとお話があるのよ」
と、いつもに似合わず、改まった調子であった。
何かあったな! そう感じると私はなにか、いかの墨のようなドスぐろい不安が、腹の底からムクムクとこみあげてくるのをおぼえた。それほどそのときの姉の様子には、警戒の色が濃かったのだ。
「さあ、どういうことでしょうか」
私がおそるおそる尋ねると、姉はなおも私の顔から眼をはなさず、
「昨夜、また人殺しがあったのよ」
と、ささやくような声でいい、
「濃茶の尼の妙蓮さんが殺されたのよ」
姉はあたりをはばかって、押し殺したような声でそういったのだが、その声はまるで私の耳もとで、爆発するように大きくひびいた。私は、ピクリと、思わず手脚をふるわせ、眼をひんむいて姉の顔を見直したが、すると姉はおびえたように、二、三步あとじさりをしながら、なおもしつこく私の顔に視線をおいて、
「それで今朝早く、警察のかたがやってこられて、辰弥さんは昨夜どこへも出なかったかと尋ねていったのよ。もちろんわたし、辰弥さんは昨夜早くから離れへはいって、けっして外へ出なかったといっておいたけれど……辰弥さん、あなた、ほんとにどこへも行きゃあしなかったわね」
「も、もちろん、ぼくはどこへも行きゃあしません。疲れていたものだから。早く寝床へ入って……」
姉は大きく眼を見はって、おびえたように私の顔を見ていたが、やがて眼に見えるように血の気がひいて、くちびるがわなわなふるえた。
どうしたのだろう。姉は何をおびえているのだろう。どうしてあんな眼つきをして、私の顔を見るのだろう。そう考えているうちに、私はハッとあることに気がついた。ひょっとすると姉の春代は、昨夜、私が地下道へもぐりこんでから、この離れへやってきたのではあるまいか。そして私のすがたの見えなかったところから、今朝、濃茶の尼が殺されたときいて、ふと疑念がきざしているのではあるまいか。そこへもってきて、いまのうそだ。それがいよいよ、姉の疑惑に油を注いだのではなかろうか。
ああ、なんということだ! よりによって私がはじめて離れをぬけ出した晚に、人殺しがあったとは……しかも、私は昨夜、濃茶の尼の尼寺の、すぐそばにいたのではないか。……
姉の春代は私の同情者である。だから昨夜のことを打ち明ければ、きっと納得してくれるだろう。しかし、それが果たしてよい結果をうむであろうか。姉のような正直者は、ひとにむかって絶対にうそはつけないであろう。たとえ口でうそをついても、眼色ですぐ看破されるであろう。そして、はてはほんとうのことをしゃべらずにはいられないだろう。そうだ、姉を苦しめるのは気の毒だが、当分昨夜のことはだまっていよう。それに私はあの地下道のことを、だれにも知られたくないのだ。
「姉さん」
しばらくしてから私のほうから口をきった。
「濃茶の尼が殺されたって、また毒をのまされたのですか」
「いいえ」
姉はふるえ声で、
「こんどは毒じゃないそうです。手ぬぐいで首をしめられていたそうですよ」
「そして、それはいったい何時ごろのことなんです。濃茶の尼の殺されたのは……」
「昨夜の十二時前後のことだろうということですよ」
私はまた腹の底から、なんともいえぬドスぐろい思いがこみあげてくるのを感じた。それではやっぱり昨夜私と典子の見た影が犯人だったのだ。濃茶の尼はあの瞬間にしめ殺されたのだ。私はそれをいくばくも離れていないところから見ていたのだ。
私は突然、はげしいショックを感じた。ああ、障子にうつったあの影は、鳥打帽をかぶっていたではないか。そして、それから間もなく、丘をくだってきた慎太郎も同じように鳥打帽を……