人間の神経というやつは妙なものだ。私は昨夜から、慎太郎の奇怪な行動について悩まされつづけていた。あのときの、慎太郎のなんともいえぬ、ものすさまじい凶悪な顔……私は夢にまでそれを見たくらいである。私はなにかしら、慎太郎がうしろぐらい目的を持って、ちかごろ毎晚、夜步きをしているのだろうと察していた。それでいて、このときまで、尼寺の障子にうつった影と、慎太郎をむすびつけて考える知恵は出なかったのだ。なぜだろう。ひょっとすると、それは慎太郎のひっさげていたつるはしのせいではあるまいか。つるはしと尼寺と……それはあまりにもかけはなれている。そのことがついいままで障子の影と慎太郎を、別々に考えさせていた原因ではあるまいか。
「辰弥さん、あなた、何を考えていらっしゃるの」
「いいえ、別に……」
「辰弥さん」
姉の声は急にやさしくなった。
「あなた、何かいいたいことがあったら、なんでもいってくださいね。わたしはあなたの味方です。世界じゅうのひとがあなたを疑っても、私だけはあなたを信用しますよ。そのことだけは、きっと忘れないでね」
「ありがとう、姉さん」
私はなんとなく胸のふさがるのをおぼえた。
私は昨夜の一件を、あくまで胸にたたんでおくつもりである。しかし、私が隠していても、いつか露見するにちがいないと思われてならなかった。そうなったら、私に対する疑いは、またいちだんと濃くなるだろう。そのときになっても、姉はやっぱり私を信用してくれるだろうか。
それから間もなく、私たちは離れを出て、朝の食卓にむかいあって座った。双生児の小梅様と小竹様は、もう食事をすませて部屋へさがっていたが、姉は私の起きるのを待っていてくれたのである。ひょっとすると、食欲がなかったのかもしれない。
私は姉のお給仕で、だまりがちに箸はしを口へはこんでいたが、すると姉は思い出したように、
「そうそう、今朝はもうひとつ変なことがあるのよ」
と、姉は箸を持つ手を膝において、真正面から私の顔を見た。
「変なことって?」
「久野のおじさまが姿を隠したんですって」
私はびっくりして姉の顔を見直した。
「久野の恒おじさんが……?」
「ええ、そう。辰弥さん、あなた御存じでしょう。昨日、梅幸さんの死体のそばに、変なことを書いた紙が落ちていたんですってね」
「ええ、あの、こんどの殺人事件の予定表みたいな……」
「ええ、そう。あれ、久野のおじさんが書いたんだってことがわかったんですって」
私はまた、驚いて姉の顔を見直した。
「姉さん、それ、ほんとうですか」
「私も詳しいことは知らないけれど、警察で調べたところじゃそうなんですって。それで、今朝早く、警察のひとがおじさまのところへ踏み込んだところが、おじさまの姿が見えないんですって。おうちのひとも、おじさまがいつ出かけたか知らないのよ。それで大騒ぎになって家じゅうさがしたところが、寝床の下から書き置きみたいなものが出てきたんですって。なんでも当分姿を隠すが、自分は絶対に潔白であるから、心配しないようにというようなことが書いてあったそうです」
私の心はあやしく乱れた。私はずっとまえから、久野の恒おじを疑っていたのだが、こう呆気なく兜かぶとをぬぐようなまねをされると、かえって拍子ぬけしたような感じであった。
「おじさんは、いつごろ家をぬけ出したんでしょう」
「それがわからないのよ。昨夜おじさんは気分が悪いといって、早くから離れへ床をとらせてひっこもったんですって。おばさんはそれっきり、おじさんの姿を見ていないんです。だから今朝、お巡りさんがやってきたときも、離れにいることだとばかり思って起こしにいったところが、寝床がぬけっからでしょう。それで、びっくりして大騒ぎになったということですわ」
「それで寝床へ入った様子は……?」
「それが全然ないという話なのよ。だからおじさま、昨夜、離れへ入ると、すぐその足で家をぬけ出したのね。そうそう、それからおうちにあった現金を、すっかり持ち出したらしいという話ですよ」
「おじさんが寝床へひっこんだ時刻は……」
「九時半ごろだというんだけれど」
それからすぐに家を出れば、濃茶の尼をしめ殺す時間は十分ある。
「姉さん」
私は箸をおいて姉のほうへ乗り出した。
「久野のおじさんというひとは、そんなことをするひとですか。わけのわからぬ人殺しをむやみやたらと……」
「まさかねえ」
と、姉はためいきを吐いて、
「昔から探たん偵てい小説は好きなほうだけれど……」
「探偵小説」
私はちょっと呆気にとられて、姉の顔を見守った。
「ええ、そう。おばさんなんか、いつもこぼしているのよ。あの年をして、探偵小説に夢中だなんて、世間に対してもきまりが悪いって……私は探偵小説ってどういうものだか知らないけれど、いろいろ、人殺しやなんかある小説でしょう。だからといって、久野のおじさまが、そのまねをしようとは思えないんですけれど……」