私の探偵小説に対する知識も、姉同様、それほど深いものではない。しかし、いつか読んだが、探偵小説の作者や読者に、それほどの悪人はないということであった。私もそのとき、なるほどと思ったのだが、しかしひるがえってこんどの事件を考えると、どこやらに、探偵小説のにおいがしないであろうか。
かくて私の心は乱れに乱れ、これを要するに、何が何やらさっぱりわけがわからなくなったのである。
その午後、思いがけなくも、金田一耕助がふらりとひとりでやってきた。私はまた、尋問責めにあうのではないかとドキリとしたが、金田一耕助はそんな気ぶりも見せず、私の顔を見るとにこにこ笑いながら、
「あっはっは、何もそうむやみに警戒なさることはないですよ。今日はね、ちょっとあなたの顔を見たくなったからやってきたんです」
「はあ」
そういわれても、私は固くならざるをえなかったが、幸いそばから姉の春代が、助け舟を出すように、
「あの……久野のおじはつかまったでしょうか」
と、口を出した。
「いや、まだでしょう。それで磯川警部はあわてて町へ出ていったんですが、どうなりますかねえ」
金田一耕助は案外無関心な口ぶりだった。
「金田一さん」
こんどは私が口をひらいた。
「昨日の紙片ですがね、梅幸さんの枕元におちていた……あれは久野のおじの書いたものだということですがほんとうですか」
「ほんとうです。その点についちゃまちがいはありません。あれは銀行が年末に、お得意先へくばったポケット日記の一ページなんですが、この村でそれをもらった家は三軒しかないんです。こちらと野村さんと久野先生、そこで筆跡鑑定してみたところ、久野先生の字にちがいないということがわかったんです」
「久野おじが逃亡したのはそのためでしょうか」
「むろん、そうでしょうね」
「そうすると、久野おじが犯人ということになるのでしょうか」
「さあそこですね。逃亡は一種の告白なりという言葉があるから、ふつうならばそう考えてもよいところなんですが、ここにひとつ矛盾があるんです」
「矛盾というと?」
「昨夜の濃茶の尼殺しですがね」
私はドキリとして金田一耕助の顔を見直した。しかし、相手は別に下心もないらしく、
「昨夜の事件はあなたも聞いているでしょう。あれはなかなか興味のある事件ですが、それは別として、濃茶の尼が殺されたのは十二時前後なんです。これはいろんな点から、もうまちがいがない事実なんですが、ところが久野先生は、昨夜十時五十分の上り列車に乗った形跡があるんですよ」
私は思わず眼を見はった。すると濃茶の尼の事件に関するかぎり、久野おじは完全なアリバイを持つことになるのか。
「そうなんです。そのとおりなんです。久野先生がたとえばつぎの駅でおりたにしたところで、すぐそれに連絡する下り列車はありませんし、步いちゃとても十二時までにはかえれません。だから、昨夜の事件に関するかぎり、久野先生は無関係だし、したがって、いままでの事件についても、無関係ということになるんじゃないかと思うんです」
「しかし、それじゃ久野おじはなぜ逃げたんでしょう」
金田一耕助はにやりと笑って、
「それゃ……あんな馬鹿馬鹿しいことを手帳に書いたってことだけでも、とても村にゃいられますまいね。逃げ出す値打ちは十分ありますよ」
「ひょっとすると、昨夜の事件は、いままでの事件と関係がないのじゃないでしょうか。だって、昨日拾ったメモによると、犯人の計画では、対立、あるいは並立しているふたりのうちどちらかを殺すことになっていたじゃありませんか。そして尼さんじゃもう梅幸さんが殺されている。濃茶の尼を殺すのは、ちとおかしいのではないでしょうか」
それは今朝から私の胸にわだかまっている疑問であった。ところが金田一耕助はそれを聞くと、にわかにガリガリ頭をかき出して、
「ああ、あなたもそれに気がついていたのですか。そうですよ、そうですよ。しかし、これはやっぱりいままでの事件のつづきなんですよ。ただ、これは犯人にとっては、はじめの予定に入っていなかった殺人なんです。濃茶の尼を生かしておけないわけが、急に持ち上がってやった仕事なんです。では、急に持ち上がったそのわけとは……? つまり、犯人がヘマをやったからですよ。ええ、そう。梅幸尼の事件で、犯人ははじめてヘマをやらかしたんです。辰弥さん、あなたにはそれがわかりませんか。わかりそうなもんですがねえ。いえ、ひょっとすると、あなたにはわからないのがあたりまえかもしれない」
金田一耕助はまじまじと私の顔を見ながらかすかにため息をつくと、それから間もなく飄々ひょうひょうとして立ち去った。
ああ、金田一耕助は、なんのためにやってきたのだろうか。