電話の声
宮瀬氏と明智探偵とが、そのふしぎな暗号文のことについて、話しあっているところへ、あわただしく書生がはいってきて、主人に電話がかかってきたことを知らせました。
「だれからだね。」
鉱造氏は書生のほうをふりかえって、めんどうくさそうにたずねました。
「名まえはいわないでも、わかっているとおっしゃるのです。ご用をうかがっても、ひじょうに重大な用件だから、ご主人でなければ話せないとおっしゃるのです。」
「へんだねえ。ともかく、この卓上電話へつないでごらん。わしが聞いてみるから。」
そして、鉱造氏は、その応接室の片すみにある、小さい机の前へ行って、そこにおいてある受話器を取りました。
「もしもし、わたし宮瀬ですが、あなたは?」
なにげなく話しかけますと、電話のむこうからは、なんだかひどくうすきみの悪い、しわがれ声がひびいてきました。
「ほんとうに宮瀬さんでしょうね。まちがいありますまいね。」
「宮瀬ですよ。早く用件をおっしゃってください。いったいあなたはだれです。」
鉱造氏はかんしゃくを起こして、少し強い声でたずねました。
「あ、そうですか。では申しますがね。わたしは、昨晩、あなたのおるすちゅうに、お宅へおじゃましたものです。ウフフ……、こういえば、べつに名を名のらなくても、よくおわかりでしょうな。」
電話の声は、おそろしいことをいって、きみ悪く笑いました。ああ、なんということでしょう。どろぼうから電話がかかってきたのです。ゆうべ暗号の半分をぬすみだしていった悪者が、大胆不敵にも、電話をかけてきたのです。
宮瀬氏は、あまりのことに、なんと答えてよいのか考えもうかばず、ちょっとためらっていますと、先方はあわてたように、またしゃべりだしました。
「もしもし、電話を切ってはいけませんよ。たいせつな相談があるのだから。……あなたは、びっくりしているようですね。フフフ……、ごもっともです。どろぼうが電話をかけるなんて、あまり世間にためしのないことですからね。しかし、まあ聞いてください。きょうはあなたと商売上の取り引きをしようというのです。けっしてらんぼうな話ではないのです。聞いてくれますか。」
名探偵明智小五郎は、宮瀬氏の顔色がかわったのを見て、すぐ、卓上電話のそばへ近づいてきました。そして、宮瀬氏の持っている受話器に耳をよせて、そこからかすかにもれてくる、先方の話し声を聞きとってしまったのです。
宮瀬氏は明智の顔を見て、「どうしたものでしょう。」と、目でたずねました。探偵は「かまわないから先方のいうことを聞いてごらんなさい。」という意味を目で答えました。
「ともかく、その用件をいってみたまえ。」
宮瀬氏が、しかたなく返事をしますと、きみの悪いしわがれ声は、さっそく、用件にとりかかりました。
「もうお気づきでしょうが、わたしは、ゆうべあなたの家につたわっている、暗号文をちょうだいするために参上したのです。そして、暗号文の半分だけは、しゅびよく手に入れましたが、どうも半分ではしかたがありません。あとの半分は、あなたがどこかへかくしているにちがいないと思いますが、わたしは、そのあなたの持っている半分の暗号を買いたいのです。
どうです。売る気はありませんか。わたしは金持ちですよ。百万円で買いましょう。あの小さな紙きれが百万円なら、いいねだんじゃありませんか。
暗号文の半分は、わたしが手に入れたのです。だから、あなたの手もとにのこっている半分は、紙くずも同様になってしまったのです。半分では暗号がとけっこありませんからね。どうです。その紙くず同様のものを百万円で買おうというのです。売りませんか。」
なんという虫のよいいいぐさでしょう。半分はぬすんでおいて、あとの半分が紙くず同然になったからといって、一億円のねうちのものを、たった百万円でゆずり受けようというのです。
宮瀬氏は、明智探偵と目で話しあって、売ることはできないと答えました。
「じゃ、もう百万円ふんぱつしましょう。二百万円出します。それでゆずってください。
二百万円では安いというのですか。一億円の金塊のかくし場所をしるした暗号だから、二百万円ぐらいではゆずれないというのですか。しかし、よく考えてごらんなさい。あの暗号はあなたのおじいさんが書いたものですよ。それからきょうまで、何十年という月日がたっています。そんな長いあいだ、あなた方は、あの暗号文をとくことができなかったじゃありませんか。たとえ、暗号の紙がぜんぶそろっていても、あなた方の知恵ではきゅうにとけるはずはありません。
とけない暗号なんか、だいじそうに持っていたって、なんにもならないじゃありませんか。まして、今ではそれが半分になってしまったのですから、あなたにとっては、まったく、なんのねうちもないのです。
その紙くず同然のものを、わたしは二百万円で買おうというのです。お売りなさい。お売りになったほうが、あなたのためですよ。」
賊が、あまりばかばかしい相談を持ちかけてきますので、宮瀬氏は少しおかしくなってきました。こちらも、相手をからかってやりたいような、気持ちになってきました。
「ハハハ……、だめだめ、そんなねだんで売れるものか。それよりも、きみのぬすんでいった半分を買いもどしたいくらいだ。どうだね、きみのほうこそ、暗号文の半分をわしに売る気はないかね。」
「フフフ、おいでなすったな。よろしい。売ってあげましょう。そのかわり、わたしのほうのは少し高いですよ。一千万円です。一千万円がびた一文かけてもだめです。どうです。買う気がありますか。フフフ……、買えますまい。だいいち、あなたの家には一千万円なんてお金はありゃしない。それよりも、悪いことはいわない。わたしにお売りなさい。二百万円でいやなら、三百万円出しましょう。え、まだ安いというのですか。じゃ、もうひとふんぱつしましょう。五百万円だ。さあ、五百万円で売りますか、売りませんか。」
賊はまるで、じょうだんのように、だんだんねだんをせり上げてきました。
「つまらない話はよしたまえ。五百万円であろうと八百万円であろうと、わしがどろぼうなんかと取り引きをするような人間だと思っているのか。それよりも、きみはつかまらない用心をするがいい。わしも、たいせつな暗号をぬすまれて、だまっているつもりはないからね。」
宮瀬氏は、きっぱりと賊の申し出をはねつけました。
「フフン、それがあなたの最後の返事ですか。せっかくしんせつにいってやっているのに、それじゃあなたは、元も子もなくなってしまいますよ。売らないといえば買わぬまでです。そのかわりに、こんどは少し手荒らいことをはじめるかもしれませんよ。あなたこそ用心するがいいのだ。わたしは、どんなことをしても、あなたの持っている暗号の半分を手に入れてみせますからね。」
「とれるものなら、とってみるがいい。わしのほうには、きみたち盗賊が鬼のようにおそれている名探偵がついているのだからね。」
「フフン、名探偵ですって? 明智小五郎ですか。相手にとって不足はありませんよ。ひとつ明智探偵と知恵くらべをやりますかね。
じゃ、せいぜいご用心なさいよ。今にどんなことが起こるか、そのときになって泣きっつらをしないようにね。念のためにいっておきますがね。電話を切ったあとで、交換局へぼくの住所をたずねてもむだですよ。ぼくは公衆電話で話しているのですからね。」
そして、ぷっつり電話は切れてしまいました。
さあ、いよいよ戦いです。
どろぼうはまだ何者ともわかりませんが、ぬすみをはたらいた家へ、ずうずうしく電話をかけてくるほどのやつですから、よほどきものすわった悪漢にちがいありません。
賊は宮瀬氏に「今にどんなことが起こるか、そのときになって泣きっつらをしないように。」と、さも自信ありげにいいましたが、いったい、どんなおそろしいてだてを考えているのでしょう。
賊は暗号の半分が、宮瀬氏の指輪の中にかくしてあることは、まだ、少しも気づいていないはずです。では、どうしてそのありかを見つけだすつもりなのでしょう。賊のほうには何か、暗号そのものを見つけだすよりも、もっと別のうまいてだてがあるのではないでしょうか。
賊がしゅびよく目的をはたすか、名探偵明智小五郎が勝利を得るか、いよいよ死にものぐるいの知恵くらべがはじまろうとするのです。