怪短劔
その夜更け、先に述べた地底の地獄巡りの穴の中で、湯本譲次とその恋人の原田麗子とが、彼等の日課である奇妙な遊戯を始めていた。
園内の人々は、夫々立派な寝室をあてがわれていたけれど、主人側の連中は、名にし負う猟奇者達のこと故、正直にその寝室で寝るものは少く、主人の治良右衛門からが、例の観覧車の箱の中を空中ベッドにしていた程で、或は大鯨の体内、或はパノラマ館、或は摩天閣の頂上と、夫々勝手な場所を選んで怪奇の夢を結ぶのであったが、湯本譲次の一対は、この地獄の地下道を、彼等の不思議なねぐらと定めていた訳である。
土色のコンクリートで固めた、陰々たる地下道には、血の池、針の山、燃え上る焦熱地獄、えん魔大王を初めとして、青鬼赤鬼の生人形が、地獄絵巻をそのままに、物凄く立並んでいる。どこにあるのか青白い電燈が、いとも不気味な薄あかりを、それらの作り物の上に投げている。
湯本達のベッドは、赤絵具を溶いて流した血の池地獄の畔にあった。このサディストとマゾヒストは、そこで夜毎の痴戯を楽しむのだ。
殆ど全裸体の原田麗子は、血の池の向岸の壁に、妙な戸板の様なものを背にして、はりつけの形でピッタリとそこにへばりついていた。彼女は今、地獄の苛責に泣き叫ぶ一人の亡者であった。だが、亡者にしては、何とふてぶてしく張り切った肉塊であったろう。
池のこちら側には、やはり半裸体の、まるで地獄の青鬼みたいな湯本譲次が立はだかって、傍らの小箱から、ドキドキ光る短剣を取出すと、それを右手にかざして、向側の裸女の肉塊めがけて投げつける姿勢だ。
アア、又しても、いまわしい人殺しが行われ様としているのか。
イヤイヤそうではない。湯本不良青年は、いつどこで覚えたのか、短剣投げの奇術が得意であった。我が恋人を的にして、その危険極まる奇術を行うのが、彼の夜毎のこよなき楽しみであったのだ。
的に立つ麗子は麗子で、恋人の投げる白刄の前に、全身を曝して、今にも我身にそれが突き刺さりはしないかと、ドキドキ胸躍らせる快感に、酔いしれているのだ。
譲次の投げる短剣は、青白い電光を受けて、不思議な稲妻ときらめき乍ら、空を飛んで、次から次へと、麗子の背後の戸板に突き刺さって行った。突き刺さっては生あるものの如く、血に餓えて、ブルル、ブルルと身震いした。
どの短剣も麗子の頬から、頭から、腕から、腿から、一分とは離れぬきわどい箇所へ、機械の如く正確に命中した。
「ホウ、ホウ、……」
短剣が命中する毎に、麗子はさも嬉しげに、異様な快感の叫び声を発した。
「今度は腋の下。少し皮を切るぜ」
譲次が無造作にかけ声しながら、ハッシと投げた最後の短剣は、アア何という妙技、彼の言葉は違わず、麗子の腋の下の皮膚を、危険のない程度に、極く薄く戸板へ縫いつけてしまった。
サッとほとばしる鮮血。
麗子は、態と大袈裟に「アレエ」と叫びながら、併しさもさも快げな表情で、目をふせて、腋の下にブルブル震う短剣を眺めた。身肉に喰い入った冷たい鋼鉄の感触。ふき出し流れる血潮の匂。変質者のあさましき法悦境だ。
譲次は譲次で、恋人の白い肉体を、網目に伝いおちる真赤な液体の美しさに、目を細くして眺め入っている。
十秒、二十秒、
何ぜか麗子の目は、食い入る様に腋の下の短剣を見つめたまま動かぬのだ。マゾヒストの喜びにしては、余りに長い凝視、異様に鋭い目の色ではないか。
「オイ。どうしたんだ。何をそんなに見つめているんだ」譲次が耐りかねて尋ねた。
「ジョージ! この短剣、一本足りなくなってやしない?」
麗子はやっと目を上げて、乾いた声で云って、じっと相手の顔を見た。ゾッとする様な恐怖の表情だ。
「なんだって。足りないって。何を云ってるんだ。ちゃんと十三本あるじゃないか。勘定してごらん」
算えて見ると、成る程十三本揃っている。
「でも変ねえ」麗子の恐怖の表情は、まだ去りやらぬ。
「何がさ」
「何がって、あんたあたしに何か隠してやしない? 今気がつくと、此短剣があんまり似ているんだもの」
それを聞くと、譲次もギョッとした様に、色を変えた。
「似ているって何に?」
「マア、気がつかないの? ホラ、ちま子さんの背中に刺さっていた、あの短剣とそっくりじゃないの」
麗子はそう云って、まるで冷たい風にでも吹かれた様に、ゾッと全身に鳥肌を立てた。
譲次も妙な顔をして黙りこんでしまった。
「譲次、あんた、やったんじゃない?」
麗子は、しばらくして、小さな声で尋ねた。
それでも譲次はムッツリと黙り返っている。
「あたし、知っててよ。あんたがちま子さん好きだったこと。そして、いつか二人っ切の時、あんたがあの人につまらないこと云って、頬っぺたひっぱたかれたこと。あたし山の上から、遠眼鏡でちゃんと見ていたのよ。……隠すことないわ」
麗子はボソボソと悪漢ジョージをいたわる様に云った。
「それがどうかしたって云うのか」
譲次が怖い顔で睨みつけながら聞き返した。
「だから、あんた、ちま子さんを殺したんでしょ。好きだから殺したんでしょ」
麗子は、まるでそれを楽しむかの如く、ズケズケと云ってのけた。
「云っていいことと、悪いこととあるぜ。お前、本当に俺が殺したと思っているのかい」
譲次の額にムクムク静脈がふくれ上った。
「だって、ちま子さんの殺されていたのは、この短剣とそっくりの兇器だったじゃないの。あんたの外に、こんな物騒なもの持ってる人はありゃしないわ」
「馬鹿っ。君は恋人を人殺しの罪人にしたいのか」
「だからよ。恋人だから、あたしにだけ、ソッとお話しよ。人になんか云やしないから」
「まだ云うかッ。畜生ッ」
譲次は猛獣の様に怒り出した。
「アレエ、いけない。もう云わない。もう云わない」
大柄で豊満で色白の麗子は、愚なるマゾヒストであった。彼女は余りにも心なき質問が、相手を芯から怒らせたことを知ると、俄に怖くなって、悲鳴を上げながら、血の池の岸を伝って逃げまどった。
怒れる猛獣の手には、一本の短剣が握られていた。それが洞窟の壁の蝋燭の赤い光りに、ギラギラと光った。
「ハハハ、……どうもしやしないよ。逃げなくってもいいよ」
猛獣が、無理に作った笑顔で、物凄く笑った。
「本当? 本当に怒ってやしない? あたし今のことは冗談よ」
「いいんだよ。何もしないから、こちらへお出で、可愛がってやるから」
麗子はオズオズと池の縁を戻って来た。
「本当? 可愛がるって、どうするの」
「こうするのさ」
麗子は肩先にチカッと痛みを感じた。見ると、薄い絹服に、美しい紅の一文字。血だ。
「アラ、切たの。でも殺すんじゃないでしょ」
彼女は案外平気である。愚なるマゾヒストは、恋人の刄に傷つけられたことを、寧ろゾクゾク嬉しがっている様に見えた。
「こうするのさ」
だが、譲次の目は恐ろしく血走っていた。彼は相手の声も聞えぬらしく、ふたたび三たび、短剣をひらめかせた。麗子の丸い肩先から、ふくよかな乳房にかけて、真赤な線が、スイスイとふえて行った。
「アレエ、助けてエ……」
麗子は歓喜の叫びを上げて、傷ついた蛇の様に、身をくねらせた。譲次の足元に転がって、彼の両足を抱きしめた。
「畜生め、畜生め」
譲次は傷つける恋人を足蹴にして、血の池地獄へ蹴り落した。
ジャブンと、真赤なしぶきが飛んで、譲次のシャツを、返り血の様に染めなした。
大柄な麗子は、血の池の赤インキに染まって、紅酸漿の様に血みどろの身体を、ヨタヨタと岸に這い上がろうとしては、又しても譲次の足蹴にあって、ドブリドブリと、血けむりを立てて、尻餅をついた。
「しつこいのね。もういやよ。もうよしましょうよ」
麗子は、池の赤インキをガブガブ飲んで、息も絶え絶えに、残虐遊戯の中止を申出でた。
だが、譲次の方は、いつもの様に、疲れ切った恋人を抱き起して、愛撫する気配も見えなかった。
彼は池の岸に仁王立ちになって、短剣をふりかざし、這い上がる麗子を、ただ一突きと身構えていた。遊戯ではない。やっぱり本気なのだ。顔にも身体にも殺気がみなぎっている。では彼がちま子の下手人であったのか。それを口外されまい為に、恋人を殺そうとしているのか。
「アレエ、助けてエ」
麗子は、本当に悲鳴を上げた。ヌルヌル辷る池の縁を、不格好な四ん這いになって、逃げ出そうとあせった。だが忽ち譲次の左手が、彼女の髪の毛を掴んで、引戻した。
「アレエ、勘忍して。誰にも云わない。あんたが下手人だなんて、決して云わない。勘忍して。勘忍して」
麗子は、ガタガタ震えながら、死にもの狂いに叫んだ。
「ハハハ、……驚いたかい。冗談だよ。もういいんだ。お前を殺そうなんて思ってやしない」
譲次が、白い歯をむき出して笑った。
「だがね、この短剣のことや、俺が怪しいなんて、人に云うと承知しないぞ。無論俺はあの殺人事件に、これっぱかりも関係はない。併し、つまらない疑いを受けるのはいやだからね。分ったかい。少しでも変なことを口走ったら、承知しないよ。殺してしまうよ」
「エエ、いいわ。決して云やしないわ」
麗子は一層恐ろしくなって、やっぱり震えながら答えた。
それを聞くと、譲次は荒々しく彼女を引寄せ、赤インキでドロドロになった、丸い頬っぺたへ、唇を当てた。
すると彼の唇は、赤ん坊をたべた山猫の様に、物凄く血に染まってしまった。