姉崎未亡人は、全裸体で、水に溺れた人が死にもの狂いに藻掻いている格好で、そこに息絶えていた。僕は血の美しさというものを、あの時に初めて経験した。脂づいた白くて滑かな皮膚を、大胆極まる染模様のように、或は緋の絹絲の乱れる様に、太く細く伝い流れる血潮の縞は、白と赤との悪夢の中の放胆な曲線の交錯は、ゾッと総毛の立つ程美しいものだ。僕は夫人とさ程親しい訳ではなかったから、この惨死体を見て悲しむよりは怖れ、怖れるよりは寧しろ夢の様な美しさに打たれたことを告白しなければならない。
君はこの僕の形容をいぶかしく思うに違いない。そんな縞の様な血の跡がついているなんて、殺人者は一体どういう殺し方をしたのかと。だがそれに答えるのには、窓の外からの朧気な隙見丈けでは不充分だ。僕は薄闇の悪夢から醒めて、現実の社会人の立場から、殺人事件発見者として適当の処置をとらなければならない。僕は女中とも相談の上先ず第一に自動電話によって加賀町の夫人の実家へこの不祥事を報告し、実家の依頼を受けて、所轄警察署その他必要な先々へ通知した。
地方裁判所検事の一行が到着して、警視庁や所轄警察署の人々と一緒に現場検証を開始したのは、それから一時間程後であった。君も知っている通り僕のA新聞社での地位はこういう事柄には縁遠い学芸部の記者だから、裁判所の人などに知合は少いのだけれど、幸にもこの事件を担当した検事綿貫正太郎氏は学芸欄の用件で数度訪問したことがあって、知らぬ仲ではなかったものだから、証人としての供述以上に色々質問もすれば、綿貫氏から話しかけられもした。だがその夜の検証の模様を順序を追ってここに記す必要はない。ただ結果丈けを正確に書きとめて置けばよいと思う。
先ず最初に土蔵の錠前の鍵に関する不可解な事実について一言しなければならぬ。先にも記した通り、土蔵の扉には錠がおりていたし、仮令窓は開いていても厳重な鉄棒に妨げられてそこから出入することは出来ないので、現場を調べる為には是非錠前の鍵が必要であった。検証の時分には加賀町の実家から姉崎未亡人の兄さんに当る人が来ていて、女中と一緒になって鍵のありかを探したのだけれど、どうしても見つからぬので、人々は止むを得ず錠前を毀して土蔵の中へ這入ることにしたが、僕が注意するまでもなく、彼等は錠前の指紋のことを気附いていて、錠前そのものには触れず、扉にとりつけた金具を撃ち毀すことによって目的を達した。だが、やがてその紛失した鍵が実に奇妙なことには、未亡人の死体の下から発見された。これは一体何を意味するのであろうか。検査の結果、その土蔵の錠前は開閉ともに鍵がなくては動かぬことが分っているのだ。とすると、蔵の外の錠前を、蔵の中にある鍵でどうして閉めることが出来たのであろう。それともこの殺人犯人は用意周到にも、予め土蔵の合鍵を用意していたのであろうか。