「お前、今家に紫の矢絣を着ているものはいないだろうね。女中なんかにも」
先生は突然妙なことを奥さんに尋ねられた。
「単物の紫矢絣なんて、今時誰も着ませんわ。あたしなんかの娘の時分には、流行っていた様ですけれど」
「君、非常に極端な霊魂のマティリアリゼーションという事を考えることが出来るかね」先生は僕を見て、何かためす様な調子で云われた。「例えばクルックスの本にある霊媒のクック嬢は暗闇の中でケーティ・キングという霊魂の肉身を出現させることが出来たが、ああいうマティリアリゼーションをもっと極度に考えると、霊魂は昼日中、賑かな町の中を歩くことだって出来るんじゃないか」
僕には先生の声が少し震えている様に感じられた。
「それはどういう意味なんですか。先生はあの紫矢絣の女が生きた人間ではなかったとでもおっしゃるのですか」
「イヤ、そうじゃない。そういう意味じゃないんだけれど」
先生は何かギョッとした様に、急いで僕の言葉を打消された。僕は先生の目の中をじっと見つめていた。
「君は探偵好きだったね。コナン・ドイルの影響を受けて心霊学に入って来た程だからね。何か考えているの」
「あの現場に落ちていた紙切れの符号の意味を解こうとして考えて見たことは見たんですけれど、分りません。その外には今の所全く手掛りがないのですから」
「符号って、どんな符号だったの。その紙切れのことは僕も聞いているが」
「全く無意味ないたずら書きの様でもあり、何かしら象徴している様にも見える、変な悪魔の符号みたいなものです」
僕が手帳を出して前便に記した図形を書いてお見せした。
黒川先生はその手帳を受取って一目見られたかと思うと、怖いものの様に僕の手に突返して、椅子の肘掛に頬杖をつかれた。それは何となく不自然な姿勢であった。先生は僕の視線から顔を隠す為にそんな姿勢を取られたのではないかとさえ思われた。そして、
「君、それは、あの」
と喉につまった様な声で切れ切れにおっしゃった。確かに狼狽を取繕おうとしていらっしゃるのだ。
「ご存知なのですか、この符号を」
「イヤ、無論知らない。いつか気違いの書いた模様を見た中に、こんなのがあったのを思出したのさ」
だが先生の口調にはどことなく真実らしくない響が感じられた。
「ちょっと拝見」と云って奥さんも僕の手帳を暫らく見ていらしったが、
「躄の乞食が証人に立ったのでしたわね」
と突然妙なことをおっしゃるのだ。
「躄車に乗っていたのでしょう。躄車……ねえ、これ躄車の形じゃないこと。この四角なのが箱で、両方の角が車で、斜の線は車を漕ぐ棒じゃないこと」
「ハハ……、子供の絵探しじゃあるまいし」
先生は一笑に附してしまいなすったが、この奥さんの着想は、僕をびっくりさせた。子供だましと云えば子供だましの様だけれど、女らしく敏感な面白い考え方だ。
「そういえば、乞食だとか山窩などがお互に通信する符号には、こんな子供のいたずら書きみたいなのが色々あった様ですね」
僕も一説を持出した。
「それは僕も考えていた。どうして警察ではその変な乞食を疑って見なかったのだろう。そいつこそ現場附近にいた一番怪しい奴じゃないのかい」