先ず、僕自身は、先便にも書いた通り、姉崎家を訪問するまでは、午後からずっと、勤先の新聞社にいたのだし、槌野君は、朝から、二階借りをしている部屋に座りつづけて、一度も外出しなかったと云うし、園田文学士は大学の心理学実験室で、ある実験に没頭していたと云うし、熊浦氏もあの日は昼間一度も外出しなかった、それは婆やがよく知っている筈だとのことで、一応は皆アリバイが成立した。その席に証人がいた訳ではないのだから、疑えばどの様にも疑えたけれど、兎も角も一同の気やすめにはなった。
「だが、ちょっと待って下さい」
僕はふと、あることを気づいて、びっくりして云った。
「僕たちは、飛んでもない思い違いをしているんじゃないでしょうか。姉崎さんの事件で一番疑わしいのは、紫矢絣の妙な女でしたね。仮令あれが真犯人でないとしても、先ず僕たちは、犯人が男性か女性かという点を、先に考えて見なければならないのじゃありませんか」
それを云うと、園田氏と槌野君とは、何とも云えぬ妙な顔をして、僕を見返した。云ってはいけない事を云ってしまったのかしらと、ハッとする様な表情であった。
熊浦氏の大きな鼈甲縁の眼鏡も、詰る様に僕の方を睨みつけた。
「女性といって、君、会員の内には、鞠子さんと、霊媒を、除けば、たった、一人しか、いないじゃないか」
如何にも、そのたった一人の女性は黒川夫人であった。僕はうっかり恐ろしいことを云ってしまったのだ。
「イヤ、決してそういう意味じゃないのですけれど、矢絣の女があんなに問題になっていたものだから。つい女性を聯想したのです」
「ウン、矢絣の、女怪か。少くとも、今の場合、あいつは、濃厚な嫌疑者だね」
熊浦氏は思い返した様に相槌を打って、
「矢絣の女と、今夜の、『織江さん』の、言葉とを、両立させようと、すれば、犯人が、女性では、ないかという、疑いが、起るのは、無理もない。女性なれば、矢絣の着物を、着ることも、廂髪に、結うことも、自由だからね」
彼はそこまで云うと、プッツリ言葉を切って、異様に黙り込んでしまった。疑ってはならない人を疑ったのだという意識が、一同を気拙く沈黙させた。
「それはそうと、姉崎さんの死骸のそばに落ちていたという、証拠の紙切れには、一体何が書いてあったのですか。祖父江さんは御承知でしょうが」
園田文学士が、白けた一座をとりなす様に、全く別の話題を持出した。
僕は、まだこの人達には、それを見せていないことに気附いたので、さい前黒川先生に描いて見せた手帳の頁を開いて、先ず園田氏に渡した。
「これですよ。奥さんは、躄車を象徴した記号じゃないかとおっしゃったんですが、女って妙なことを考えるものですね」
近眼の文学士は、僕の手帳を、近々と目によせて、一目見たかと思うと、実に不思議なことには、黒川先生と同じ様に、何かギョッとした様子で、急いでそれを閉じてしまった。