さて、そういう風にして土蔵の二階へ昇った人々は、先ず曽恵子さんの死体を囲んで、裁判医の鑑定を聞くことになった。綿貫氏の許しを得て僕もそこに居合せたが、こんなことには慣切ったその筋の人達をさえひどく驚かせた程、この殺人方法は奇怪を極めていた。鑑定によると、兇器は剃刀様の薄刄のもので、右頸動脉の切断が致命傷だと云うことであったが、素人にも一見してそれが分る程、頸部からの出血は夥しいものであった。未亡人の俯伏せになった顔は不気味な絵の具で染めた様に見え、解けた黒髪は絞る程もしっとりと液体を含んでいた。併しこの殺人が奇怪だという意味は、そういうむごたらしい点にあるのではなくて、被害者の生命を断つ事に直接の関係はないけれど、併し何かしら意味ありげな、常識では判断の出来ない、非常に不気味な別の事実についてであった。その一つは、姉崎未亡人が丸裸にされて殺されていたことだ。同じ蔵の二階の片隅に彼女の不断着が脱ぎ捨ててあった所を見ると、被害者は蔵の中へ這入るまではちゃんと着物を着ていたことは確かで、その二階へ来てから自から脱いだか、犯人に脱がされたかしたものに相違ないのだが、それがこの殺人事件にどんな意味を持っていたのかちょっと想像がつかないのだ。それからもう一つの点は、(この方が一層奇怪であって、姉崎夫人殺害事件中での最も著しい事実なのだが)夫人の死体には先に記した致命傷の外に、全身に亙って六ヶ所に、小さい斬り傷があったことだ。鑑定書の口調をまねて詳しく云うと、右三角筋部、左前上膊部、左右臀部、右前大腿部、左後膝部の六ヶ所に、長さ三センチから一センチ位までの、剃刀様の兇器によるものと覚しき軽微な斬り傷があって、そこから六本の血の河が全身に異様な縞を描いていたのだ。誰も皆これらの傷が余り小さ過ぎることを不審に思った。殺人者が六度斬りつけて六度失敗し、七度目にやっと目的を達したと考える為には、傷が不自然に小さ過ぎた。いくらしくじったからと云って、六度が六度ともこんなかすり傷の様なものしかつけ得なかったとは想像出来ない事だ。又斬り傷の箇所が前後左右に飛び離れているのも不自然であって、被害者が逃げ廻ったり抵抗した為だと解釈するにしても、何となく首肯し難い所がある。しかも不思議はそればかりではなかった。これらの傷口から、流れ出している血潮の河の方向が、傷口の小さ過ぎる事などよりは更らに一層奇怪な感じを与えるのだ。と云う意味は、それらの血の流れの方向が全く滅茶苦茶であって、例えば右肩の傷口からのものは、左肩に向って横流し、左腕の傷口からのものは手首に向って下流し、左足からのものは反対に身体の上部に向って逆流し、又ある傷口からのものは斜めに流れていると云う調子で、中にも異様に感じられたのは、右臀部からの(これが一番大きい傷口なのだが)血の流れは横に流れ、腰を通って下腹部の左の端近くまで、つまり腰の部分を殆ど一周しているという有様であった。如何に被害者が抵抗し、もがき廻ったにもせよ、こんな滅茶苦茶な血の流れ方があるものでなく、裁判医なども全く初めての経験だと驚いていた。死体の所見は大体以上に尽きている。夫人の絶命した(或は兇行の行われた)時間は、医師の鑑定ではその日の午後という程度の漠然とした事しか分らなかった。又後に取調べられた所によると、近所の人達が夫人の悲鳴を聞いていたという様な事実もなく、結局この殺人事件は、女中が使を云いつけられて家を出た零時半頃から彼女が帰宅した四時半頃までの間に行われたものだという以上に正確な時間を決定する材料は、今の所発見されていないのだ。なお未亡人の屍体は後に帝大解剖室に運ばれることになったが、その結果についてはいずれ書く機会があると思う。
次に検証の人々は、その土蔵の二階を主として、姉崎邸の室内、庭園を問わず、殺人兇器その他犯人の遺留品、指紋、足跡、犯人の侵入逃走の経路などを発見する為の綿密な捜索を行ったが、その結果は殆ど徒労であったと云ってもよかった。検事や警察官達の心の中まで見抜くことは出来ないけれど、少くとも彼等が取交していた会話や、僕が綿貫検事から聞出した所によって想像すれば、捜索の結果彼等の蒐集し得た事実は左の諸点に尽きていた。