殺人の方法が余り異様なので、これを単なる盗賊の仕業だとは誰も考えなかった様だが、順序として、一応盗難品の有無が調べられた。その結果は、君も想像する通り、邸内には何一品紛失したものもないことが確められたに過ぎない。それは被害者の左の薬指にはめられた高価な宝石入りの白金の指環がそのまま残っていた事によっても明かであった。
それから、被害者の実兄と女中と僕とは、型通りの訊問を受けたが、僕の判断する限りでは、検事はこれという捜査上の材料を掴むことは出来なかった。被害者の姉崎曽恵子さんは、一種の社交家ではあったけれど、非常にしとやかな寧ろ内気な、そして古風な道徳家で、若い未亡人に立ち易い噂なども全く聞かなかったし、まして人に恨みを受ける様な人柄では決してなかった。検事の疑深い訊問に対して、彼女の兄さんと女中とは、繰返しこの事を確言した。結局、姉崎家屋内での捜査は、右に図解した奇妙な一枚の紙切れの外には、全く得る所がなかったのだ。そこで、問題は女中が使に出てから帰宅したまでの、つまり被害者が一人ぼっちで家にいた時間、午後一時頃から四時半頃までに、姉崎家に出入りした人物を、外部から探し出すことが出来るかどうかの一点に押し縮められた。これが検事達の最後の頼みの綱であった。
局面がそこまで来た時、僕は当然ある人物を思出さなければならなかった。云うまでもなく、この手紙の初めに書いた躄乞食のことだ。あいつに若し多少でも視力があったならば、そして、今日の午後ずっと同じ空地にいたのだとすれば、あの空地は丁度姉崎家の門の斜向に当るのだから、そこを出入りした人物を目撃しているに違いない。あの片輪者こそ、唯一の証人に違いない(註)。僕は思出すとすぐ、その事を綿貫検事に告げた。
「これから直ぐ行って見ましょう。まだ元の所にいて呉れればいいが」綿貫氏というのは、そういう気軽な、併し犯罪研究には異常に熱心な、少し風変りな検事なのだ。そこで人々は姉崎家の手提電燈を借りて、ゾロゾロと門外の空地へと出て行った。
手提電燈の丸い光の中に、海坊主みたいな格好をして、躄乞食は元の場所にいた。蚊を防ぐ為に頭から汚い風呂敷の様なものを被って、やっぱり躄車の中にじっとしていたのだ。一人の刑事が、いきなりその風呂敷を取りのけると、片輪者は雛鶏の様に歯のない口を黒く大きく開いて、「イヤー」と、怪鳥の悲鳴を上げ、逃げ出す力はないので、片っ方丈けの細い腕を、顔の前で左右に振り動かして、敵を防ぐ仕草をした。
決してお前を叱るのではないと得心させて、ボツボツ訊ねて行くと、乞食は少女の様な可愛らしい声で、存外ハッキリ答弁することが出来た。先ず彼の白っぽく見える左眼は幸にも普通の視力を持っていることが確められた。今日はおひる頃からずっとその空地にいて、前の往来を(随って姉崎家の門をも)眺めていたことも分った。「では、おひる過ぎから夕方までの間に、あの門を出入りした人を見なかったか。ここにいる女中さんと、この男の人の外にだよ」と、検事は、その筋の人々に混って立っていた姉崎家の女中と僕とを指さして、物柔に訊ねた。すると乞食は、刑事の手提電燈に射られた僕と女中とを白い眼で見上げながら、外に二人あの門を入った人があると、ペタペタと歯のない唇で答えた。