天空の曲芸
怪老人が、穴からそとへ逃げだしたときには、中村警部は、まだ、はしごのなかほどにいたので、とても、あいてを、つかまえることはできません。
てんじょうの小さな穴から、大仏像の肩の上に、とびだした怪老人は、そこに、はらばいになって、穴のそとから手をいれて、鉄ばしごのてっぺんが、コンクリートの壁にとりつけてあるのをはずして、両手で、はしごを、ユサユサとゆすぶりはじめました。
「あ、あぶない。係長、はしごがたおれますよっ。」
下にいる刑事が、大ごえをたてました。
怪老人は、ひとゆりごとに、はずみをつけて、はしごを、壁から、つきはなそうとしています。
中村警部は、ふりおとされないように、両手で、はしごに、しがみついていましたが、だんだん、はげしくゆれだして、はしごといっしょに、たおれそうになるので、とうとう、中段から下へ、とびおり、どさっと、しりもちをつきました。
ほとんど、それとどうじでした。長い鉄ばしごが、おそろしい音をたてて、サーッと、たおれてしまったのです。
そのとき、てんじょうの穴から、怪老人の顔がのぞいて、白ヒゲのなかの、まっかなくちびるが大きくひらき、気ちがいのような、笑いごえが、ひびいてきました。
「ワハハハ……、ざまあみろ。子どもがかくしてあるなんて、でたらめだよ。ここが、おれのさいごの逃げ道さ。これから、おれは天国へのぼるんだ。きみたちが、どんなにくやしがっても、ついてこられない。高い高い空へ、のぼるんだ。」
そして、老人の顔が、ぱっとひっこんだかとおもうと、パタンと音がして、てんじょうの穴が、まっ暗になってしまいました。そとから、ふたをしめたのです。
そこは大観音像の肩の上でした。怪老人は、コンクリートの大きな肩の上を、ヒョイヒョイと歩いて、仏像の巨大な頭へと、よじのぼりはじめました。
観音さまの頭のかぶりものに、うねうねしたひだがあるので、それを足ばにしてのぼるのですが、垂直のがけですから、まるで登山のロック=クライミングみたいなものです。よほど、冒険になれた人でなければ、のぼれるものではありません。
しかし、白ヒゲの怪老人は、まるで青年のような、すばやさで、そこをよじのぼり、とうとう、観音さまの頭のてっぺんに、あがってしまいました。
コンクリートの巨大な頭の上に、スックと立ちあがった怪人の姿!
ぴったりと身についた、黒のビロードのシャツとズボン、そのすらっとした姿が、なんのさえぎるものもない、広い広い青空のなかに、立ちあがっているけしきは、じつに異様な感じのものでした。
怪人は、両手を高くあげて、なにか、あいずのようなことをしました。そして、目の下に見える森をこして、そのむこうの広っぱのほうを、じっと、ながめています。
そこに賊のなかまが、かくれてでもいるのでしょうか。そのなかまにむかって、手をあげて、あいずをしたのでしょうか。
しばらくすると、森のむこうから、ブーンというかすかな音が、聞こえてきました。そして、そこから、大きなトンボみたいなものが、空中に浮きあがってきたのです。それは、一だいのヘリコプターでした。すきとおった、大きなまるい操縦席が、とほうもなく、でっかい目玉のように、キラキラ光っています。
それを見ると、コンクリート仏の頭のうえの怪老人が、また、両手をあげて、あいずをしました。
ヘリコプターは、あおあおと晴れわたった空を、だんだん、こちらへ近づいてきます。
ヘリコプターの操縦席には、賊の部下が乗っているのにちがいありません。怪老人が、警官にとりかこまれても、へいきでいたのは、これがあったからです。ヘリコプターで、逃げだすという、さいごの切りふだが、ちゃんと用意してあったからです。
しかし、怪老人は、いったいどうして、このヘリコプターに乗りこむのでしょう。ヘリコプターを、地上へおろすことはできません。そこには警官隊が、待ちかまえているからです。仏像のなかの一階にのこった三人の刑事は、賊の部下をとらえてから、近くの警察署へ、電話で、ことのしだいを、しらせましたので、はやくも十数名の警官隊が、仏像のまわりに、かけつけていたのです。
「ワーッ。」というときの声が、はるか下のほうから、わきあがってきました。警官隊が、仏像の頭の上の怪老人にむかって、くちぐちに、なにかわめいているのです。
怪老人は、それを見おろして、白ヒゲの中のまっかな口を、いっぱいにひらいて、カラカラと笑いました。そして、右の手をひらいて、おやゆびを鼻のあたまにつけ、五本の指をヒラヒラと動かして見せました。
「やーい、ざまを見ろ。ここまで、のぼってこれないだろう!」
と、からかっているのです。
警官隊は、くやしいけれども、どうすることもできません。消防自動車の、くり出しばしごがあれば、仏像の肩まで、とどくかもしれませんが、いまから電話をかけにいったのでは、とても、まにあいません。ただ、下から「ワーッ、ワーッ。」と、さわいでいるばかりです。
そのとき、ヘリコプターは、もう仏像の頭の上にきていました。そして、そこの空中にとまってみょうなことをはじめたのです。
まるいすきとおった操縦席の出入り口がひらいて、そこから長い縄ばしごが、サーッと、おろされました。縄ばしごは空中にブランブランと、ゆれています。
仏像の頭の上の怪老人は、そのほうに手をのばしましたが、なかなか、とどきません。ヘリコプターは、空中で、すこしずつ、あちこちと動いて、老人に縄ばしごを、つかませようとします。じつにあぶない曲芸です。下から、それを見あげている警官たちは、おもわず、手にあせをにぎりました。
あっ、あぶない! あっ、もうすこしだっ! いくら悪ものでも、あの高いところから落ちたら、たいへんです。うまく、縄ばしごに、つかまってくれるようにと、いのらないではいられませんでした。
あっ、うまくいったぞっ!
怪老人は、とうとう縄ばしごのはじに、とりつきました。そして、それをのぼりはじめたのです。
長い縄ばしごは、ブランコのように、はげしくゆれています。高い空の上で、それをのぼるのは、サーカスの空中曲芸よりも、むずかしくて、あぶないのです。
怪老人は、若い曲芸師のような、しっかりした身のこなしで、縄ばしごを、一だんずつ、のぼっていきます。ブランブランゆれながら、のぼっていくのです。
ああ、よかった。とうとう、操縦席にたどりつきました。そこにいた、若い操縦士が、老人の手をとって、中にひきあげ、そのあとで、縄ばしごも、ひきあげてしまいました。
ヘリコプターは、きゅうに動きだし、東京のほうにむかって、とびさっていきます。まるいすきとおった操縦席には、怪老人とその部下が、ならんで、こしかけているのが見えました。しかし、その姿も、ヘリコプターが、遠ざかるにしたがって、だんだん小さくなり、見わけられなくなり、そして、しばらくすると、ヘリコプターそのものが、眼界から消えさってしまいました。