笑う影
デパート事件があってから二―三日たったある夕方のこと、島田少年はおうちの庭をブラブラあるいていました。空はドンヨリくもって、春のはじめにしては、いやにあたたかい日でした。
島田君のおとうさんは、戦争のまえまでは、たいへんなお金もちでした。今はある銀行につとめていらっしゃるのですが、おうちだけは、むかしのままのりっぱなたてもので、庭も広いのです。日本座敷の前が、いちめんのしばふになっていて、そのむこうに築山があり、森のように木がしげっています。
島田君は裏の鳥小屋の前で、ニワトリをからかったりしていましたが、それにあきると、ブラブラと庭のしばふへやってきました。座敷は、ガラス戸がしめきってあって、中はヒッソリとして人のけはいもありません。
建物のかどをまがって、ヒョイとしばふへ出ると、どうしたのか、島田君は、そこに立ちすくんでしまいました。しばふの上に、じつにふしぎなことが、おこっていたからです。
島田君はスケートがすきで、ローラー・スケートの道具を持っていました。しばらく使わないで、お座敷の縁の下においてあったのですが、いま見ると、そのローラー・スケートがしばふのまんなかに、ならんでいるのです。いや、そればかりではありません。それが、ひとりで動いているのです。ちょうど人間が足にはめているように、たがいちがいに、すすんでいくのです。
島田君は夢でも見ているのではないかと思いました。しかし、夢ではありません。学校から帰ってから、今までのことを、すっかりおぼえています。ねむったはずはありません。
「アッ、そうだ。ひょっとしたら……。」
島田君はゾーッと、せなかに水をかけられたような気がしました。透明怪人のことを思いだしたからです。あいつが、ローラー・スケートをはいてあるいていたら、ちょうどこんなふうに見えるだろうと、気づいたからです。
しばふの上ですから、スケート場のようには、すべりませんが、それでも、だんだん座敷のえんがわから遠ざかって、築山のすそにしげっている、八つ手の木のほうへ、近づいていきます。
「おかあさーん、早く、だれか、早く来て……。」
島田君はやっと声が出ました。そして、あとでかんがえると、はずかしいようなことを、さけんでいました。
しかし、そのとき、ローラー・スケートは、もう八つ手のしげみの中に、つきすすんでいたのです。そして、八つ手の葉がガサガサと音をたて、ちょうどひとりの人間が、その葉をかきわけてはいっていくような動きかたをしました。八つ手のうしろは、大小のときわ木がしげって、森のように、くらくなっているのです。
やがて、島田君のさけび声を、聞きつけて、おかあさんと女中のたけが、かけてきました。おとうさんはまだ銀行からお帰りにならないのです。
それから、大さわぎになって、おとなりのおじさんを呼んできたり、警察にも知らせて、庭じゅうを調べたのですが、何も発見することができませんでした。ただ、八つ手のしげみのおくに、ローラー・スケートがころがっていたばかりです。怪人は、そこでスケートをぬいで、築山のうしろから、塀のそとへ逃げてしまったのにちがいありません。
それにしても、怪人はなぜスケートなんか、はいてあるいたのでしょう。調べてみても、べつにぬすまれたものはないようです。空気男は、クツみがき少年を助けたのでも、わかるように、ときにはよいこともしますし、いたずらっぽいやつですが、なにも島田君のうちの庭へしのびこんで、スケート場でもないしばふで、スケートをやらなくてもよさそうなものです。これには、何か、わけがあるのではないでしょうか。もしかしたら、いつか島田君に正体を見られたのを知っていて、島田君を苦しめようとしているのではないでしょうか。
すると、そのつぎの日の夜ふけに、またしてもおそろしいことが、おこりました。
島田君は六畳の自分の部屋に、ひとりで寝るのですが、何かへんな音がしたような気がして、まよなかに、ふと目をひらきました。裏庭にめんして一間の窓があり、スリガラスの障子がしまっています。そとに木のこうしがついているので、雨戸はあけたままなのです。そのスリガラスに、庭の遠くにある電灯の光がさしているのですが、見ると、そこにボンヤリと黒い人の影が、うつっているではありませんか。
その人は、窓から少しはなれたところに立っているらしく、上半身がふつうの人間の倍ほどの大きさにうつっています。ふしぎなことに、その人は着物をきていないらしく、はだかの肉づきが、わかるのです。顔は横むきになっていて、モジャモジャのかみの毛、目のくぼみ、高い鼻、その下にひらいているくちびるなどが、実物の倍の大きさで、まざまざと、うつっています。なんだかボンヤリした、うすい影ですが、かたちだけはハッキリわかるのです。
島田君は、おそろしさに、息もとまるほどでした。心臓がドキンドキンとおどっているのが、よくわかります。声をだすことさえできません。何かの魔力にひきつけられたように、じっとその影を見つめているばかりです。
「エヘヘヘヘヘ……。」
ゾーッと身もすくむような声でした。影が笑ったのです。大きな影の口が、耳までさけるように、ひらいて、パクパクしながら、ひくい声で笑っているのです。
島田君はもうがまんができませんでした。腹のそこから、怒りがこみあげてきました。死にものぐるいの勇気がでたのです。パッと、ふとんの上におきあがって、
「だれだッ。」
と、どなりました。それから、ひととびに、窓のところへ、かけつけて、いきなり、ガラス障子をひらきました。その男と顔をあわせることを、かくごしていたのです。目と目を見あわせることを、かくごしていたのです。そして、ありったけの声をふりしぼって、しかりつけてやるつもりでした。
ところが、いったい、どうしたというのでしょう。ひらいた窓のそとには、だれもいなかったではありませんか。顔がだせるほどの、あらい木のこうしですから、そこから顔を出して、あたりを見まわしましたが、どこにも人影はありません。障子をあけるまで、影はうつっていたのです。ところが、あけてみると、影の本体である人間が、かき消すように、なくなってしまったのです。
「一郎、どうしたんだ。」
いまの物音とさけび声で、おとうさんがおきてこられました。一郎というのは島田君の名です。
「いま、ここに、へんなやつが立っていたの。でも、障子をあけると、だれもいないんです。おとうさん、また、あいつかもしれませんよ。」
あいつと言えばわかるのです。むろん透明怪人のことです。それを聞くと、おとうさんの顔にも真剣な色がうかびました。
それからまた大さわぎです。うちじゅうの人がおきて、部屋という部屋の電灯をつけ、そのうえ懐中電灯やこん棒まで持って、裏庭の捜索がはじまりました。しかし、人影などはどこにもありません。庭の土がかわいているので、足あとさえ見あたらないのです。
ここにまた、一つのふしぎがくわわりました。空気のように、すきとおった怪物に、影があるということです。もっとも、あとでかんがえてみると、その影は、ふつうの影のようにまっ黒ではなくて、なにかボーッとした、半透明のものをうつしたような影でした。怪物は人間の目には見えないけれども、影だけはかくすことができないで、あんな、もうろうとしたかたちがうつるのかもしれません。