名探偵の危難
明智探偵が玄関を出ると、いつも呼ぶ自動車が、おもてにまっていました。運転手も顔みしりの男です。明智が客席に腰をおろして、「警視庁。」と、命じますと、車はすぐに走りだしました。
町かどを三つほど、まがりますと、両がわに塀のつづいた、さびしい屋敷町に、さしかかります。その屋敷町を半分ほど通りすぎたとき、とつぜん、すぐ目のまえの、横町から、一台の自転車が、飛びだしてきました。ふしぎなことに、その自転車には、だれも乗っていないのです。ただ自転車だけが、ひじょうないきおいで、パッと、飛びだしてきたのです。
運転手は、あわてて、ブレーキをふみましたが、まにあいません。明智の自動車は、おそろしい音をたてて、その自転車の横っぱらに、ぶっつかりました。はねとばされた自転車は、パッと宙に飛びあがり、地面におりたときには、フレームも車輪も、グニャグニャにまがっていたのです。
自動車の前部にも、ひどい傷ができ、どこか機械がいたんだらしく、そのまま、動かなくなってしまいました。
明智は、自動車がきゅうにとまったために、前にのめって、あぶなく、顔をぶっつけそうになりました。けがはありません。
運転手は自動車をおりて、自転車の飛びだしてきた横町をのぞきました。だれも乗っていない自転車が、ひとりで、はしってきたのが、ふしぎでしようがなかったからです。
ところが、ますますふしぎなことには、その横町には、自転車のぬしらしい人は、だれもおりません。ただ、ずっとむこうのほうから、ボロボロにやぶれた服を着た、こじきのような、三十歳ぐらいの男がフラフラとあるいてくるのが、見えるばかりです。
「オイ、この自転車、きみが乗っていたのか。」
運転手は、そのこじきが、近づくのをまって、どなりつけました。
「おれじゃねえよ。」
こじきは、けげんな顔をしてこたえました。
「へんだな。きみのほかに、だれもいないじゃないか。きみは、この自転車が、走っているのを見なかったか。」
「見たよ。あっちから、見ていた。」
「じゃあ、自転車に乗っていたやつは、どこへ行ったんだ。むこうへ逃げたのか。」
「いんや。逃げないよ。はじめから、いなかったんだ。」
こじきは、みょうなことを言いました。
「いなかったって? それじゃどうして自転車が走れるんだ。」
「だれも人はのっていないけれど、自転車は、ひとりで、走っていた。へんなこともあるもんだと、おれもふしぎに思って見ていたんだ。」
それをきくと、運転手はゾーッとしました。そして、思わず、うしろをふりむくと、そこに自動車から出てきた明智探偵が立っていました。ふたりは、目を見あわせて、うなずきあいました。この運転手は、むろん透明怪人のことを知っていたのです。また、明智が警視庁へいくのも、その事件にかんけいがあることをさっしていました。
「それじゃ、いまの自転車には、透明怪人が乗っていたんですね。そして、この横町で飛びおりて、わざと先生の自動車に、ぶっつからせたのですね。」
運転手は、おびえた顔で、明智をみつめました。名探偵は、それにたいして、かるくうなずいたまま、何も言いません。内心では、さっき電話をかけてきたばかりの怪老人が、もうこんないたずらをはじめたすばやさに、おどろいていたのですが、そういう顔色は見せませんでした。
透明怪人が乗っていたのだとすると、あいては目に見えないやつですから、おっかけることも、とらえることもできません。運転手は、しかたがないので、こじきにてつだわせて、こわれた自転車を、道わきによせ、自動車の前部の機械をしらべていましたが、チェッと舌うちをしながら、
「かわりの車を呼んでまいりましょう。きゅうには、なおりそうもありません。」
とあきらめたように、言うのでした。
ちょうどそのとき、むこうから、一台の自動車が徐行してきました。どこかへ客をおくった帰りらしく、「空車」というふだが出ています。
「先生、うまいぐあいに、空車がきましたよ。あれにたのみましょう。」
運転手が、その自動車を呼びとめてくれたので、明智は、なんの気もつかわず、それに乗りこんでしまいました。さすがの名探偵も、まさかあんなことが、おころうとは、夢にも思わなかったのです。
その自動車は、タクシーにしては、すこし、りっぱすぎるようでした。そとから見たのでは、そうでもありませんが、中の腰かけなどは、あたらしいきれで、はってあって、そのかたちも、どことなく、ふつうの自動車とちがっていました。
行くさきをつげると、その自動車は、おそろしい速力で、走りだしました。いくつか町かどをまがってゆくうちに、あたりのようすが、だんだんさびしくなり、いつのまにか、広い原っぱにさしかかっていました。
「おい運転手君、道がちがやしないかい。警視庁へゆくのにこんな原っぱは通らないはずだが。」
明智が声をかけますと、運転手は、むこうをむいたまま、みょうな笑い声をたてました。
「エヘヘヘ……、今ごろ、気づいたのかね。名探偵にしちゃあ、すこしかんがにぶいですね。」
そして、自動車がとまったかと思うと、運転手はグーッとうしろをふりむき、黒いピストルのつつ口が、明智の胸にむけられました。しかし、それよりも、もっとおそろしいものが、こちらを、じっとにらみつけていたのです。さすがの明智も、それをひとめ見たときには、思わずゾッとしないではいられませんでした。
運転手の顔は、ろう人形だったのです。二つの目が黒いうつろになって、すきとおるように青白い、西洋人の顔をしたろう仮面だったのです。
タクシーと見せかけた、この自動車は、じつは怪老人の車でした。明智の自動車に自転車をぶつからせて、動けなくし、こまっているところへ、からのタクシーを通りかからせ、しぜんに、明智がこの車にのるように、しむけたのです。名探偵はまんまと、怪老人の計略にかかったのです。
しかし、明智はべつにうろたえるようすもなく、じっとクッションにもたれて、ろう仮面をみつめていました。ちょっとでも、すきがあれば、ぎゃくに、あいてを、とっておさえようという考えなのでしょう。
ところが、そのとき、またしても、ふしぎなことがおこりました。
明智がもたれているクッションのせなかが、グーッと前のほうへ動きだしたのです。びっくりして、ふりむくと、クッションが動いてできたすきまから、ビックリ箱の人形のように、一つの人間の顔がヒョイとあらわれたではありませんか。しかも、その顔が、やっぱり、あのぶきみなろう仮面だったのです。ろう仮面といっしょに、一本の手がヌーッと出て、それがピストルをにぎっていました。そして、そのピストルの先が明智のせなかに、おしつけられたのです。
敵はふたりでした。しかも、ふたりともろう仮面の透明怪人です。ひとりは前の運転席から、ひとりはクッションのうしろから、それぞれ、ピストルをつきつけているのです。このふたりのろう仮面は、たぶん怪老人がつくった透明人間第一号と第二号なのでしょう。
さすがの名探偵も、もうどうすることもできません。さけんでみても、あたりに人かげもない、広い原っぱです。手むかいすれば、前とうしろから、ピストルのたまが、飛びだします。こうなっては、ただじっとして、敵のするままに、まかせるほかはありません。
「エヘヘヘヘ……、探偵さん、おれたちの首領が、しんせつに、電話で注意してやったのに、言うことをきかなかった天ばつだよ。首領の知恵には、さすがの探偵さんも、かなわなかったねえ。かわいそうに、もう手も足も出ないねえ。エヘヘヘヘヘ……。」
運転席のろう仮面が、またしても、いやな笑い声をたてました。しかし、笑っているのは声だけで、ろうでできた顔は、キョトンとした表情で、すこしも笑わないのです。それが、いっそうぶきみな感じでした。
うしろのやつは、明智のせなかに、ピストルの先をおしつけたまま、じっとしていましたが、運転手に化けたやつは、やがて、運転席とのさかいを、またぎこえて、こちらへはいってきました。そして、青白いろう仮面が、明智の目の前に、グーッと近づいてきたのです。
「ちっとばかり、きゅうくつなめにあわせるよ。なあに、すこしのあいだの、しんぼうだ。」
そう言ったかと思うと、明智探偵の目の前が、まっくらになってしまいました。黒布で目かくしをされたのです。それから、ほそびきのようなものが、からだにグルグルまきつけられるのを感じました。そして、そのほそびきが、だんだんつよくしまってきて、手も足も、まったく動かせないようになりました。ああ、名探偵明智小五郎は、ついに、敵のとりことなってしまったのです。