青眼鏡 の男
熱帯地方に
この奇怪な物語の主人公は、その蠍である。イヤ蠍にそっくりの人間である。彼はそのことを
では「妖虫事件」というのは、一体どの様な出来事であったか、それを語るには、順序として、
相川青年は、多くの会社の重役を勤め事業界一方の
珠子はまだ女学生であったから、けばけばしい身なりを避けていたけれど、でも
「マア、先生、何をそんなに見つめていらっしゃるの」
珠子がふとそれに気附いて声をかけた。
その時は、もう食事が終って、コーヒーが運ばれていたのだが、京子はそれを取ろうともせず、なぜか異様に緊張した表情で、食堂の向うの隅を、じっと見つめていた。
その隅には、二人の中年の紳士が
「先生、あの人を知っているんですか」
相川青年も妹の加勢をして
「イイエ、そうではないんですけれど、ちょっと黙っていらっしゃいね」
家庭教師は、目はその方を見つづけたまま、手真似をして二人を黙らせたが、帯の間から金色をした小型のシャープ鉛筆を取出し、そこにあったメニュの裏へ、何か妙な
「アスノバン十二ジ」
京子はその青眼鏡の男から視線をそらさず、手元を見ないで鉛筆を動かすものだから、仮名文字はまるで子供の書いた字の様に、非常に不明瞭であったが、兄妹はメニュを
「何を書いているんです。それはどういう意味なのです」
相川青年が思わず訊ねると、京子はソッと左手の指を口に当てて、目顔で「黙って」という合図をしたまま、又青眼鏡の男を見つめるのだ。
「ヤナカテンノウジチョウ」
それからまた、
「ボチノキタガワ」
「レンガベイノアキヤノナカデ」
と続いた。メニュの裏の奇妙な文字はそれで終ったが、鉛筆をとめてからも、やや五分程の間、向うの隅の青眼鏡ともう一人の紳士とが、勘定を済ませて食堂を立去ってしまうまで、京子の視線は、青眼鏡の顔を追って離れなかった。
「どうしたんです。
京子のたださえ青い顔が一層青ざめていることと云い、この何ともえたいの知れぬ気違いめいた仕草と云い、ただ事ではないと思われたので、相川青年は、真剣な顔をして、ヒソヒソ声になって、きびしく訊ねた。
「守さん、あなた小説家を
京子も声をひそめて、こんなことを云った。
「イイエ、そうじゃないでしょう。あんなきざな眼鏡をかけて、古ぼけたモーニングなんか着ている小説家なんてありませんよ」相川青年が答えた通り、その二人連れは、政党の下っぱか所謂会社ゴロという様な人種以上には見えなかった。
「そうでしょうか。でもおかしいわ。あれが小説の筋でないとすると……」
「あれって何です。何が小説の筋なんです」
相川青年は、もどかし
「本当に恐ろしい事なんです。人を殺す話なのです。短刀で一寸だめし五
京子はゾーッと総毛立っている様な、寒々した表情であった。
「先生、夢でもごらんなすったのじゃありませんか。誰もそんな恐ろしい話してやいないじゃありませんか。こんな大勢人のいる場所で、……」
珠子が気違いをでもあやす様に云った。そういう彼女自身の美しい顔も、少し青ざめて見えた。
「イイエ、誰にも聞取れない様な、低い声で囁き合っていたのです。あなた方は、さっきの青眼鏡の二人連れが、給仕のすきを見て、ヒソヒソ話をしていたのを見なかったのですか」
そう云われると、なる程彼等は、
「では、あの二人がそんな恐ろしい相談をしていたとおっしゃるのですか」
相川青年が思わず訊ねる。
「エエ、そうなのです。私はそれをすっかり聞いたのです」
「聞いたのですって? あの遠方の囁き声を、それに、
やっぱりこの人は頭がどうかしているのだ、幻聴に違いない。それをさも誠しやかに考えているのは、気でも狂う前兆なのではないかと、兄妹は寧ろそれが恐ろしく感じられた。
「ここに書いた通り、あの青眼鏡の男が
「それが先生にだけ聞えて、あすこに立っているウェーターには聞えなかったとでもおっしゃるのですか」
珠子は腹立たしげであった。
「エエ、そうなのです。私に
「マア、読唇術ですって?」
「エ、リップ・リーディング?」
兄妹が同時に、思わず高い声を出した。
「エエ、そうなの。マア静かにして下さい。私はずっと以前、生れつき唖で聾の小さいお嬢さんをお世話したことがありましてね。そのお嬢さんについて、聾唖学校へ行き行きしている内に、とうとう読唇術を覚え込んでしまいましたのよ。で、なければ、そのお子さんを本当にお世話出来ないのですものね」
京子が
「アア、そうでしたか。それを知らなかったものだから、びっくりしてしまった。すると何ですね。さっきの青眼鏡の男は、最初短刀で一寸だめし五分だめしにすると云ってから、このメニュに書きつけてある日と場所とを云った訳ですね。つまり、(明日の晩十二時)(谷中天王寺町)(墓地の北側)(
相川青年は、メニュの仮名文字を判読しながら云った。今度は彼の方が真剣になっていた。
「マア怖い。そこで誰が殺されるのでしょう。一寸だめし五分だめしなんて」
珠子もゾッと恐怖を感じないではいられなかった。
「ですから、私、小説の筋でも話し合っていたのではないかと思ったのです。こんな所で、あんまり恐ろしい話ですもの」
「僕も
相川青年は珠子の所謂「探偵さん」の本領を
「そんなことなら、もっと早く云って下されば、あいつらの跡をつけて見るのだったのに」
と如何にも残念そうであった。
彼は抜け目なくウェーターを呼んで、あの二人がここの常客かどうか、若し名前や職業を知らないかと訊ねて見たが、全く今夜初めての客で、名前など知ろう
それから、三人はこのことを警察に告げたものかどうかについて、やや真面目に相談したが、結局それは思い