秘密函
「三笠さん、三笠さん、しっかりして下さい。どうしたのです」
守は思わず、老人の上に顔を寄せて、叫ぶように云った。
「ウフフフ……」
病人はなおも笑い続けながら、実に驚いたことには、まるでたっしゃな人の様に、ムックリ起上ると、いきなりベッドをおりて、守の前に立ちはだかった。
白いダブダブの
「いけません、いけません、そんな無茶をしては、……」
と叫ぶ。
「シッ、大きな声をしちゃいけない。壁に耳ありじゃからね。だが、安心し給え。わしはこの通り、なんともないのだよ。ハハ……、わしはお芝居もなかなか上手じゃろうが」
云いながら、老人はラジオ体操の様に、手を動かして見せた。
だが、いくら
「フフフ……、これかね」老人は自分の顔を指さして、「これは絵の具だよ。ここの院長さん絵心があってね。わしの顔をメーク・アップしてくれた。これは院長とわしと二人だけのお芝居でね、看護婦も事務員も、誰も知らないのだよ。でないと、どこに敵のまわし者がいないとも限らんのでね」
非常に痩せて見えたのは、負傷の為に本当に痩せてもいたのだし、それに、目をドロンとさせたり、口をだらしなく開いたり、上手なお芝居が、一層老人の形相を物凄く見せたのであった。
やっと
「そうでしたか、僕はどうなることかと、実に心配しましたよ」
「イヤ、失敬失敬、敵をあざむくには、先ず味方からという訳でね、つい驚かせて済まんかった。君には、もう大体分ったじゃろうが、赤蠍の奴、今度はわしを狙い始めたのでね。危くて仕方がない。傷の方もすっかり治っているのだけれど、敵をあざむく為に、懇意な院長に頼んで、いつまでもここに置いてもらっている訳さ。フフフ……」
探偵は注意深く、決して大きな声を出さなかった。
「では、さい前、あんなに苦悶されたのも、……」
「ウン、ウン、あれが実は今晩のお芝居のクライマックスでね。君は丁度よい所へ来合せたというものじゃ。イヤ、失敬失敬。ところで、君はさっき、わしが大騒ぎをやっている最中、あの窓の外を見なかったかね」
アア、やっぱりそうであったのか。
「エエ、見ました。誰かが覗いていたのでしょう。あいつの正体を御存知なのですか」
「ウン。知っている」
「若しや……」
「その通り、赤蠍じゃ。恐らく青眼鏡の部下の奴じゃ」
「どうしてこの庭へ入って来たのでしょう」
「そんなこと、あいつらには朝めし前の仕事じゃろう。塀をのり越すなり、図々しく表門から入り込んで、裏手へ潜入するなり」
「そうまで分っていたら、なぜあいつを捉えなかったのです。僕もお手伝いしましたのに」
「
「じゃ、何か毒のある品物を送って来たというのは本当なのですね」
「ウン、本当だ。わしはすんでのことに、やられる所じゃった」
「アア、それで思い出しましたが、僕も実は、新しく起った事件を御知らせに来たのですよ」
守は騒ぎにまぎれて、つい忘れていた桜井家の出来事を思い出した。
「第三の犠牲者のことかね」
探偵は、待構えてでもいた様に、図星を指すのだ。
「そうです、併し、あなたはどうしてそれを、……」
「桜井のお嬢さんじゃろうが」
余りのことに、守はこの名探偵の藍色の顔を見つめたまま、二の句がつげなかった。
「ハハハ……、それを知らん様では、探偵とは云われん。驚くことはないよ。四五日前から、わしは毎晩この病院を抜け出して、東京中をうろつき廻っていたんだからね。赤蠍の奴が次に何を企らむか位は、ちゃんと目星がついているのさ」
「今度は未然に防げましょうか」
「ハハ……、気掛りと見えるね。君はあのお嬢さんとは仲よしだったね。大丈夫、今度こそわしが引受けた。この
「それを伺って、僕も気持が軽くなりました。ですが、探偵という仕事もつらいですね。賊に傷つけられて入院なすったそのことを、すぐに又探偵の手段に逆用しなければならないなんて」
「ハハハ……、君にはつらい様に見えるかね。わしは愉快なんじゃよ。軍人以外の職業で、探偵程戦闘的なものはありやしない。命がけの戦いだ。智恵という智恵を
「ワー、おじさんの元気には、僕顔まけしますよ。ハハハ……」
とうとう冗談が出た。守青年はそれ程気が軽くなっていたのだ。この老いぼれ探偵のたのもしさはどうだ。すばらしさはどうだ。
話は段々陽気になって行ったけれど、彼等は非常に用心深く、声の加減をしていたので、
気持がほがらかになると、今まで目にもつかなかった品物が、ふと守の注意を
「これ
枕元の小卓の上に、美しい
「秘密函さ。
老探偵の口辺に、ちょっと
例の「探偵さん」の守青年のことだから、秘密函と聞くと、つい開けて見ないでは気が済まなかった。彼はその函をあちこちと向きを変えながら、指先でひねくり廻していたが、暫くすると、パチンと幽な音がして、函の蓋がパッと開いた。と同時に、
「アッ」
という守の
何かしら、函の中から赤いものが飛び出して来て、彼の顎にぶッつかり、そこの皮膚をチクリと
思わず函を放り出して、よく見ると、長く伸びたゼンマイの先に震えている赤く塗った金属製のものは、何と驚いたことには、例の悪魔の紋章「赤い蠍」ではなかったか。
守はそれと気付くと、刺された顎を押えながら、青くならないではいられなかった。賊が探偵に送った品物というのは、この小函であったのだ。すると、今チクリと刺した蠍のとげには、
「失敬失敬、ちょっと実験をして見たのだよ。成程、この奇抜な注射法は百発百中だわい。秘密函を開けようと熱中すると、自然に顔が函の上へのしかかる。そこへパッと蓋が
「じゃ、このとげには、毒が……」
「ハハ……、そんな危いものを、
「おじさん、人が悪いや。すっかり驚かされてしまった」
「だがね守君、よく考えて見ると、この小函は、ただ毒薬注射器という以外に、何かしら犯人の思想を象徴している様な気がして仕方がないのだよ。ホラ、君が最初谷中で隙見したという、あの変な木箱ね。その中にはどうやら人間が入っていたらしく、そいつが妙な
探偵は、非常に真面目な表情になって、じっと守青年を見つめた。
「なる程、おっしゃれば、そうですね。そう聞くと、何だかひどく不気味な気がしますけれど、僕にはその意味がよく分りません」
「イヤ、わしにもハッキリ分っている訳ではない。じゃが、その箱に包み隠されているものが、どうやら、この犯罪の根本原因を
白髪白髯の名探偵は、我れと我が言葉に、段々昂奮しながら、つい知らず