悪魔の紋章
派出所に居合わせた二人の警官が、相川青年の案内で、
彼等は塀の中の広い叢を突切って、いきなり問題の部屋へと突進した。惨劇はその部屋で行われていたのだから、これは実に無理もない行動であったが、若し屋内に踏み込む前に、外の叢を一応調べて見る余裕があったなら、彼等は、その叢の闇の中に、異様な人影が
それは
「逃げてしまったかな」
「ウン、そうかも知れん。戸を破って
一人の警官がいきなり肩をぶッつけると、大きな音がして、一枚の雨戸が倒れた。三人はその隙間から、警官が用意して来た懐中電燈の光をたよりに、部屋の中へと上り込んで行った。
「妙だね、なんにも居ないじゃないか」
「別に血のあともないし」
警官達はそんなことを呟きながらも、
「オイ、君、どうも妙だね。人殺しがあるというから飛んで来たんだが、これじゃそんな形跡は少しもないじゃないか。君の頭がどうかしていたんじゃないのかい。ここは有名な化物屋敷だからね」
「大方夢でも見たんだろう」
警官達は腹立たしげに、相川青年を責めた。
「イヤ、決して夢やなんかじゃありません。確かに人殺しです。それも並々の犯罪事件ではなさそうなんです。この床の間に木箱があって、その中から妙な歌が聞えて……」
「どうも君の話は
「常識では判断出来ないかも知れません。併しこれには何か訳があるのです。常識的でない丈けに、恐ろしく……ア、併し、あれは一体なんでしょう」
相川青年は弁じながら、ふと床の間の壁を見ると、そこに妙なものがあった。一人の警官の手にする懐中電燈が、丁度床の間の壁の真中を丸く照らし出していたが、その円光の中に、何かしら恐ろしい物の形が浮出しているのだ。
「ホウ、何か
警官もそれに気づいて、懐中電燈を近づけて調べて見ると、茶色の壁からにじみ出した様に、赤黒い色彩で、足の多い一箇の怪物が、そこに
「分りました。蠍です。赤い蠍です。ホラ、春川月子が誘拐された日に、ベッドの上に置いてあったアレと、同じ毒虫の姿です」
相川青年がとうとう、その怪しい絵模様の意味を発見した。
なる程、そう云えば、蠍の形に違いない。八本の足と、二本の鋏と、鋭い尻尾とが、ちゃんと描いてある。
一人の警官が、何を思ったのか、その絵に近づいて、指で壁を
「ヤ、血だ! この蠍は人間の血で描いてあるんだ」
アア、血で描かれた「赤い蠍」。何とふさわしい犯罪者の紋章ではないか、それにしても、奴等の不敵さはどうだ。これ見よがしに、床の間の正面に、署名を残して行ったのだ。
「何か布類にでも血を含ませて描いたのだろうが、これ丈け大きな絵を描くには、大変な分量だぜ」
警官が驚いて云った。
「ウン、恐らく殺人は行われてしまったんだね」
この異様な血痕を見せつけられては、もう相川青年を疑う訳には行かなくなった。
「それから、縁側をよく調べてごらんなされば、いくら拭き取ったにしても、血の跡が残っているに違いありませんよ」
相川は気負ってつけ加えた。
調べて見ると、これも
「だが、死体をどう始末したんだろう。これ程証拠を残して置いて、死体丈け隠して見たところで仕方がないからね」
「ウン、もう一度探して見よう」
そして、又綿密に屋内の捜索が行われたが、結局、柱や畳の上に沢山の小さな血の斑点が発見されたのと、犯人が勝手口から
勝手口の外には、少しばかりの空地を隔てて、煉瓦塀をくり抜いた小さな裏木戸があり、朽ちた木製の扉が、形ばかり残っていた。そこを出ると、こんもりとした林があって、その林の向うは、省線を見下す断崖になっているらしかった。
二警官がその辺を調べていた時、本署から司法主任と二人の刑事探偵とが駈けつけて来た。派出所を出る時、電話で急を告げて置いたからだ。
司法主任は二警官の報告を聞取ると、流石に事件の重大性を理解したらしく、非常線の手配、警視庁への報告など、一人の刑事に云い含めて、手早く取運んだのち、更に現場の捜索を続けることにした。
屋内はもう
詳しくは夜の明けるのを待って調べる外ないのだけれど、
一同二組に分れて、叢の両方の端から始めたのだが、相川青年は司法主任の組に加わり、強力な手提電燈を振りかざす刑事のうしろから、まるで彼自身、日頃あこがれの探偵にでもなった気持で、猟奇心に燃えながら、ついて行った。
夜露の降りた叢の
「ひどい荒れかたですね。東京の真中に、こんな化物屋敷があるなんて、嘘みたいですね」
「不思議に買手がつかないらしいんだね。何でも自殺者があって、そいつの
司法主任と刑事とが、不気味さをまぎらす様に、そんな会話を
暫くすると、庭の奥の方から、黒い人影が矢の様に走って来た。ギョッとして一同が立ちすくんでいると、
「死体らしいものが見つかりました」
それは化物でも、犯罪者でもなく、警官の一人であった。
「見つかった? どこだ?」
「向うの台所の
警官はそれ丈け云うと、急ぎ足に元来た方へ引返して行った。
「アア、井戸があったのか。じゃ、そこへ行って見る事にしよう」
そして、三人の一組が、警官のあとを追って走り出そうとした時、チラチラ揺れる電燈の光が、つい目の先の叢の中に、実に異様なものを映し出した。
「ちょっと待って下さい。アレ、アレをごらんなさい」
相川青年がいち早く気づいて叫んだ。
電燈の
「何だ、こりゃ」
司法主任がたまげた様な声を出した。
「いやだなあ。
刑事は
「マア待ち給え。どうも変だぜ、こいつは」
司法主任は、迷信家ではなかった。彼は
「どうやら死骸は二人らしいぜ。向うの井戸に一人と、ここに一人と。……オイオイ君、どこへ行くんだ」
刑事はソッとこの場を逃げ出そうとしていたが、見とがめられて、仕方なく立止った。
「もう沢山です。僕等はみんな気でも狂ったんじゃありませんか。変ですぜ。草の中へ、まるで
刑事の云う通り、そこには、合計四本の、手と足との植物が生えていたに違いないのだ。
実にそれは、何か吐き気を催す様な、
(アア、俺はやっぱり夢を見ているんだ。悪夢にうなされ続けているんだ。早く早く。誰かが叩き起してくれればいい)
相川青年は歯ぎしりを噛む様にして、手を握ったり開いたりしていた。
「イヤ、そうじゃなかった。被害者はやっぱり一人
司法主任はそれを確めて、憤激の
さて読者諸君、この恐ろしい着想は、化物屋敷という舞台から思いついた、悪魔の諧謔に過ぎなかったのであろうか。イヤイヤ、決してそうではなかったのだ。悪魔のカラクリには、凡て二重底、三重底の秘密があった。一見子供らしい