毒虫の餌食 
相川守は一応近くの派出所まで同行を命じられ、この重大事件を予め知っていながら
彼は余り尊敬出来ない様な刑事達から、乱暴な言葉で、散々に油をしぼられたことを、さして悔いてはいなかった。それよりも、今晩の恐ろしい経験で、一つ場数を踏んだという、猟奇者の喜びの方が大きかった。兎も角も、彼は大犯罪事件の
彼は自働電話を見つけて、じき帰るから心配しない様にと、家の者に伝えて置いて、寝静まった大通りの夜霧の中を歩いて行った。
霧を破って、時々
彼は谷中の空家での激情を
ふと気がつくと、大通りに面した広い空地に、大きなテントが薄白く
彼は又しても悪夢のもやに捲き込まれる様な気持で、そのテントの前に
今度空車が通ったら呼ぼうと考えながら、何となくその絵看板にひきつけられて立ちつくしていると、小屋の中に忍びやかな人の
(オヤ、曲芸団の人達はこのテントの中で寝るのかしら)
と見ている内に、男はツカツカこちらへ来かかったが、そこに守が佇んで、じっと自分を見つめているのに気づくと、ハッとした様に、向きを変えて反対の方角へ歩き出した。
(あいつだ! 春川月子を殺した奴だ!)
守青年は
そいつは鳥打帽を冠っていたのだ。見覚えのある青眼鏡をかけていたのだ。鼻の下には一文字に濃い髭があったのだ。
あとになって分ったのだが、そこは金杉の大通りであった。守はいつの間にか省線の
金杉と云えば省線を隔てて、谷中とは目と鼻の間だ。犯人は兇行現場を逃げ出して、今までこの見世物小屋に身を
昼間は往来の
守青年は少なからず
犯罪者の急ぎ足の靴音ばかりが天地に響き渡っていた。その三四間あとから、跫音を盗んでコソコソと歩いて行く、みじめな青年が彼であった。広い世界に、彼と犯人とたった二人
青眼鏡は尾行者に気づいているのかいないのか、振向きもしないでサッサと歩いて行く。
異様に長く感じられたコンクリート塀が、やっと終ると、犯罪者はその塀に添って、ヒョイと暗い横町へ曲ってしまった。
見失ってはならぬと、一層急ぎ足になって、同じ角を曲ったが、一歩その暗闇に
青眼鏡の黒い影が、正面を切って、そこに待ち構えていたのだ。
「静かにしろ。でないと……」
男は変に嗄れた声で云って、右手を動かして見せた。ピストルだ。
「相川君」
とその男が呼びかけた。守は余りの意外に、空耳ではないかと疑ったが、決してそうではなかった。
「フフフ……、驚いたか。よく知っているんだよ。さっきは色々御苦労様だったね。だが、つまらない真似はよすがいいぜ。お前なんかの手に合う俺じゃないんだ。サア、帰り給え。向うを向いて、おとなしくあんよをするんだ」
低い圧し殺した声で云いながら、右手のピストルが絶えずチロチロと
相川青年は途方に暮れてしまった。おめおめと悪人の命令に従うのは、余りにみじめだ。と云って、この飛道具を持った命知らずを相手に、何をしようというのだ。
「どうして僕の名を知っているんだ」
とでも虚勢を張って見る外はなかった。
「ウフフフ……、知っている訳があるのさ。お前は、大切な俺の餌食の兄弟だからね」
守には
「餌食というのはね、ホラ、今夜の春川月子みたいな美しい餌食のことさ。ウフフフ……、分ったかね」
アア、何と云う事だ。悪魔が餌食といっているのは、守の妹の珠子のことであったのだ。だが、余りと云えば
「僕の妹を知っているのか」
「ウン、よく知っている。東京の女学生という女学生の内で第一等の美人の珠子という娘を、俺はとっくから知っているんだ」
「どうしようというのだ」
「餌食にしようというのさ。ウフフフ」
「ウヌ」
余りの言草に、守はカッとのぼせ上って、いきなり相手に組みつこうとした。
「馬鹿ッ、命が惜しくはないのか」
グイグイとピストルの筒口をつきつけられては、流石にそれ以上
「サア、そっちを向くんだ。そして、あんよは上手と」
肩を掴んでねじ向けられると、もうそのままにしている外はなかった。
忽ち背後に悪人の走り去る跫音が聞えた。そして、二三間
「
という
殺人鬼は、今まで考えていたよりも、数倍も恐ろしい奴であった。守青年が今夜殺人現場を見せつけられたのは、偶然ではなかったのかも知れない。悪魔はそれをちゃんと予知していて、彼の所謂餌食の料理法を、態と見せびらかしたのかも知れない。すると、レストラン・ソロモンでの
守は悪人の跫音が聞えなくなると、
彼は仕方なく大通りに引返し、空車の通るのを待って、家に帰ったが、その
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