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毒虫の餌食

时间: 2023-09-06    进入日语论坛
核心提示:毒虫の餌食えじき相川守は一応近くの派出所まで同行を命じられ、この重大事件を予め知っていながら其筋そのすじに届け出いでなか
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毒虫の餌食えじき


相川守は一応近くの派出所まで同行を命じられ、この重大事件を予め知っていながら其筋そのすじに届けでなかった不都合を散々さんざんに責められたが、彼が知名の実業家の息子であったこと、事件が余りに異様でまさか本当とは思えなかった事情などが段々分って来たので、いずれ参考人として呼出しを受けるであろうが、今日は一先ずこれでと、帰宅を許されたのは、もう午前二時頃であった。
彼は余り尊敬出来ない様な刑事達から、乱暴な言葉で、散々に油をしぼられたことを、さして悔いてはいなかった。それよりも、今晩の恐ろしい経験で、一つ場数を踏んだという、猟奇者の喜びの方が大きかった。兎も角も、彼は大犯罪事件の渦中かちゅうに身を投じたのだ。それが、彼の探偵本能に一種異様の満足を与えた。
彼は自働電話を見つけて、じき帰るから心配しない様にと、家の者に伝えて置いて、寝静まった大通りの夜霧の中を歩いて行った。
霧を破って、時々空車あきぐるまのヘッド・ライトが眼を射たけれど、直ぐ呼びとめる気にはならなかった。彼は昂奮していたのだ。街燈とアスファルトばかりの空漠たる夜の大道が、彼を異様にひきつけたのだ。
彼は谷中の空家での激情を反芻はんすうしながら、足の向くままに、霧の中を靴音高く歩いて行った。
ふと気がつくと、大通りに面した広い空地に、大きなテントが薄白くそびえていた。曲芸の見世物みせものだ。すっかり電燈を消したテント張りが巨象の感じで押し黙っている様子が、守を吸い寄せないではおかなかった。
彼は又しても悪夢のもやに捲き込まれる様な気持で、そのテントの前にたたずんで、毒々しいペンキの絵看板を見上げた。丁度彼の前にあったのは、一人の醜い一寸法師の娘が、印半纒しるしばんてんを着て、鉢巻はちまきをして、手踊りを踊っている絵であったが、その娘の厚ぼったい唇が、遠くの街燈の光を受けて、薄気味悪く笑っていた。
今度空車が通ったら呼ぼうと考えながら、何となくその絵看板にひきつけられて立ちつくしていると、小屋の中に忍びやかな人の跫音あしおとがした様に思われたので、ギョッとその方角に目をやると、小屋の入口の幕がムクムクと動いて、一人の洋服を着た男がソッと忍び出して来た。
(オヤ、曲芸団の人達はこのテントの中で寝るのかしら)
と見ている内に、男はツカツカこちらへ来かかったが、そこに守が佇んで、じっと自分を見つめているのに気づくと、ハッとした様に、向きを変えて反対の方角へ歩き出した。
(あいつだ! 春川月子を殺した奴だ!)
守青年は冷水ひやみずをあびせられた様な感じがした。
そいつは鳥打帽を冠っていたのだ。見覚えのある青眼鏡をかけていたのだ。鼻の下には一文字に濃い髭があったのだ。
あとになって分ったのだが、そこは金杉の大通りであった。守はいつの間にか省線の陸橋ブリッジを渡って、自宅とは反対の方角へ歩いていたのだ。
金杉と云えば省線を隔てて、谷中とは目と鼻の間だ。犯人は兇行現場を逃げ出して、今までこの見世物小屋に身をひそめていたのに違いない。
昼間は往来のはげしい大通りだけれど、今は人の影さえなく、流しタクシーもほんの時たま、通り魔の様に行き過ぎるばかりだ。それに、丁度その辺は何かの会社の長いコンクリート塀になっていて、助けを求めるすべもない。
守青年は少なからず躊躇ちゅうちょを感じたけれど、この大罪人を見逃してしまうのは、余り残念だったので、勇気をふるい起して、青眼鏡の跡をつけて見ることにした。
犯罪者の急ぎ足の靴音ばかりが天地に響き渡っていた。その三四間あとから、跫音を盗んでコソコソと歩いて行く、みじめな青年が彼であった。広い世界に、彼と犯人とたった二人りという様な、ひどく心細い感じがした。
青眼鏡は尾行者に気づいているのかいないのか、振向きもしないでサッサと歩いて行く。
異様に長く感じられたコンクリート塀が、やっと終ると、犯罪者はその塀に添って、ヒョイと暗い横町へ曲ってしまった。
見失ってはならぬと、一層急ぎ足になって、同じ角を曲ったが、一歩その暗闇にったかと思うと、守青年はギョクンと立ちすくんでしまった。
青眼鏡の黒い影が、正面を切って、そこに待ち構えていたのだ。
「静かにしろ。でないと……」
男は変に嗄れた声で云って、右手を動かして見せた。ピストルだ。
「相川君」
とその男が呼びかけた。守は余りの意外に、空耳ではないかと疑ったが、決してそうではなかった。
「フフフ……、驚いたか。よく知っているんだよ。さっきは色々御苦労様だったね。だが、つまらない真似はよすがいいぜ。お前なんかの手に合う俺じゃないんだ。サア、帰り給え。向うを向いて、おとなしくあんよをするんだ」
低い圧し殺した声で云いながら、右手のピストルが絶えずチロチロと威嚇いかくする様に動いていた。
相川青年は途方に暮れてしまった。おめおめと悪人の命令に従うのは、余りにみじめだ。と云って、この飛道具を持った命知らずを相手に、何をしようというのだ。
「どうして僕の名を知っているんだ」
とでも虚勢を張って見る外はなかった。
「ウフフフ……、知っている訳があるのさ。お前は、大切な俺の餌食の兄弟だからね」
守には咄嗟とっさに「餌食の兄弟」という意味が分らなかったので、黙っていると、相手はさもおかし相に又笑って、併しやっぱり圧し殺した声で、
「餌食というのはね、ホラ、今夜の春川月子みたいな美しい餌食のことさ。ウフフフ……、分ったかね」
アア、何と云う事だ。悪魔が餌食といっているのは、守の妹の珠子のことであったのだ。だが、余りと云えば突拍子とっぴょうしもない言草いいぐさではないか。一体全体何の理由があって、何の恨みがあって。
「僕の妹を知っているのか」
「ウン、よく知っている。東京の女学生という女学生の内で第一等の美人の珠子という娘を、俺はとっくから知っているんだ」
「どうしようというのだ」
「餌食にしようというのさ。ウフフフ」
「ウヌ」
余りの言草に、守はカッとのぼせ上って、いきなり相手に組みつこうとした。
「馬鹿ッ、命が惜しくはないのか」
グイグイとピストルの筒口をつきつけられては、流石にそれ以上手向てむかう勇気はなかった。守はただこぶしを握りしめて、身体中から冷汗を流して、無念の歯噛はがみをするばかりであった。
「サア、そっちを向くんだ。そして、あんよは上手と」
肩を掴んでねじ向けられると、もうそのままにしている外はなかった。
忽ち背後に悪人の走り去る跫音が聞えた。そして、二三間へだたった声で、
精々せいぜい用心したまえ」
という捨白すてぜりふが、囁くように聞き取れた。
殺人鬼は、今まで考えていたよりも、数倍も恐ろしい奴であった。守青年が今夜殺人現場を見せつけられたのは、偶然ではなかったのかも知れない。悪魔はそれをちゃんと予知していて、彼の所謂餌食の料理法を、態と見せびらかしたのかも知れない。すると、レストラン・ソロモンでの邂逅かいこうも、密談も、凡て悪魔の計画の内に含まれていたのだろうか。
守は悪人の跫音が聞えなくなると、性懲しょうこりもなく又跡を追おうとしたが、その横町は一度大通りからそれると、まるで迷路のように入組んだ細道になっていて、その上軒燈けんとうもない真暗闇まっくらやみなので、出来るだけ歩き廻って見たけれど、青眼鏡の行方をつきとめることは全く徒労に終った。
彼は仕方なく大通りに引返し、空車の通るのを待って、家に帰ったが、そのみちで、さい前の派出所へ立寄って、金杉での、恐ろしい出来事を報告するのを忘れなかった。
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