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闇に浮く顔

时间: 2023-09-06    进入日语论坛
核心提示:闇に浮く顔翌日の夕刊社会面は、どの新聞も「妖虫殺人事件」で埋うずめられた。さまざまの犯罪記事に慣れた人々も、このずば抜け
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闇に浮く顔


翌日の夕刊社会面は、どの新聞も「妖虫殺人事件」でうずめられた。さまざまの犯罪記事に慣れた人々も、このずば抜けた事件には、きもを冷さないではいられなかった。
殺されたのが、この国の津々浦々にその名を知らぬものもない、映画界の女王春川月子なのだ。殺したのが、その形を想像した丈けでもゾッとする、妖虫さそりの精とも云うべき悪魔なのだ。これが全国の話題となり、全国の恐怖とならない筈はなかった。
新聞は金杉の曲芸団に手入れが行われたことも書き漏らさなかった。
守青年の報告によって、所轄警察の人々は、翌早朝曲芸団を襲った。犯人は団中の一員ではないかと推察されたからだ。
併し、十数人の男女の曲芸団員中には、犯人の容貌風采ふうさいに似よりの者さえいなかった。昨夜テントの中に寝泊りしたのは、木戸番の六十歳に近い老人と、一座の売りものになっている一寸法師の小娘だけであったが、「青眼鏡の男がテントの中に入っていた」と聞いて、二人ともびっくりしている有様であった。外の団員達も、それぞれ木賃宿きちんやどとか、遊廓ゆうかくとか泊り場所が分っていて、残らずアリバイが成立した。
結局犯人はただ、無人を幸いに、曲芸団のテントを、一時の隠れ場所に選んだに過ぎないことが明かとなった。
兇賊の正体も、その行方も全く不明なことが、人々の恐怖を倍加した。あの醜怪な毒虫は、どこかの隅に、呼吸いきを殺して、じっと餌物えものを待っているのだ。と思うと、若い娘さんなどは、夜遊びの帰り途、暗い辻々を曲るのも、ビクビクものであった。
相川家の人々が、そういう局外者などよりは、幾層倍の恐怖におののいていたことは云うまでもない。ことに彼等は、世間のまだ知らない犯人の予告を、相川珠子こそ第二の餌食と狙われているのだという恐ろしい予告を、聞かされていたのだから。
「いくら大胆な曲者でも、まさか人殺しの予告なぞをして、態々わざわざ相手を警戒させる筈はありませんよ。そいつはどうかして守さんを見知っていて、咄嗟にあんないやがらせを云ったのでしょうよ。いくら何でも、あんまり馬鹿馬鹿しい事ですもの」
家庭教師の殿村京子などは、そう云って青眼鏡の言葉を信じようともしなかったが、守青年は、あの悪夢の様な殺人の目撃者であった丈けに、一概に賊のおどし文句とは言切いいきれれない気がした。父親の操一氏も、大切な一人娘の事だから、兎も角念の為にと云うので、警官の巡回を増してもらうやら、二人いる書生の上に更に屈強な青年を一人傭入やといいれるやら、珠子の通学のかえりには書生をともさせるやら、出来る丈けの用心をした。
守、珠子兄妹の母は、数年以前世を去って、家族と云っては、独身を続けている父の操一氏と、兄妹の三人切りであった。三人の身の廻りの世話は長年勤めている老女中が引受けていたが、母に代って若い珠子を教え導く人がなかったので、操一氏は知合しりあいの牧師に頼んで、教養あるクリスチャンで、家庭教師の経験を積んだ殿村夫人を傭入れた。
夫人と呼ばれてはいるけれど、殿村さんは四十歳の未亡人で、十数年以前夫に別れてから、ずっと独身を通して、信仰と教育の仕事に一身を捧げている様な人であったが、この殿村夫人が、毎日午後から夜にかけて、相川家へ通勤して来るのだ。その外に三人の書生、三人の女中、これが広いやしきに住む相川家の全員であった。
それらの人々は、本人の珠子を除いては、皆殺人鬼の恐ろしい予告のことを云い聞かされ、警戒を申し渡されていた。
併し、仮令たとえ聞かされずとも、本人の珠子が、このただならぬ空気を感づかない訳はなかった。彼女は老女中の口から、なんなくその秘密をぎ出した。そして、身も世もあらぬ恐怖にうちひしがれてしまった。
家に居るのも怖かった。道を歩くのも怖かった。ただ学校で級友達きゅうゆうたちと机を並べて講義を聞いている間だけ、救われたように不安が消えた。
「なあに、本当に万一の用心なのですよ。そんな馬鹿馬鹿しいことが起るものですか」
殿村夫人がいくら慰めても、珠子の脅えた心は静まらなかった。今にも、今にも、あの暗い隅っこから、いやらしい毒虫が、ゾロゾロと這い出して来るのだと思うと、独り寝るのも恐ろしく、老女中の寝床を自分の部屋へ運ばせさえした。
谷中の事件があってから五日目の夕方のことであった。珠子は学校から帰って、殿村夫人の旧約聖書の講義を聞いたあとで、もう日の暮れに、疲れた身体を浴槽に浸していた。
女学生とは云っても、卒業期間近まぢかの十八歳の珠子は、仮令殿村夫人にでも、肌を眺められるのが恥しかった。どんなに怖くても入浴だけは一人でなければいやであった。それに浴室のガラス窓には、すっかり鉄格子てつごうしがはめてあったし、壁一重ひとえ向うのぐちには女中がいるのだし、窓の外は少しの空地を隔てて、高い塀が厳重に建てめぐらしてあったので、殆ど不安を感じることはないのだ。
珠子は、白タイル張りの浴槽の縁に、断髪の頭をもたせかけて、足を伸ばしてグッタリとなっていた。電燈の光に透いて見える湯の中に、恐ろしい程大人になった桃色の下半身が、異様に平べったく浮いていた。
我れと我が肌をじっと眺めていると、珠子はいつものくすぐったい様な、甘いような、夢心地になって行った。
(人間って、どうしてこんなに美しいのだろう)
珠子は彼女自身の裸身に惚々ほれぼれとすることがあった。ある名も知らない赤雑誌に「東京女学生美人投票、第一席、ミス・トウキョウ」として、どうして手に入れたのか、珠子の写真までのせてあったのが、大評判になって、お友達から散々冷かされたことが、寧ろ誇らしく思い出された。
彼女は自分自身の美しさをよく知っていた。知っていればこそ、余計に今度の事件が恐ろしく思われるのだ。人の恨みを買った覚えは少しもない。犯人の目的が何であるかは、春川月子という第一の犠牲者を考えただけでも、分り過ぎる程分っている。
「オオ、青眼鏡さん! あたしの身体が、そんなにも欲しいの?」
彼女はふとそんなことを口走って、独りで赤くなった。兇悪無残の殺人鬼が、ゾッと総毛立つ程恐ろしければこそ、怪しくも懐しまれる刹那がないのではなかった。
彼女は目の前の透明な湯の中に、浮き上った桃色の肌の上に、水晶体凝視の魔術の様に、まざまざと、もつれ合うおぞましのまぼろしを描いていたが、その余りにも強烈な刺戟しげきに、真蒼まっさおになって思わず飛び出す様に浴槽を出た。
白タイルの洗い場に、すっくと立上った十八歳の処女の肉体は、何に比べるものもなく美しかった。
身体中にしまを作った湯の河が、桃色の曲面をツルツルと、たわむれる様に滑り落ち、それを柔かい電燈の光が、楽しげに愛撫していた。
ガラス窓と隣合せて、大きな姿見すがたみかかっている。珠子はその前に立って、又しても我が裸身に見入りながら、手や足を色々に動かして見た。
それの作る種々様々の曲線と陰影。そこに、我身ながら、はかり知られぬ神秘を感じないではいられなかった。
彼女は、その思いつきに真赤になりながら、あるかなきかの小声で、我れと我が名を呼びかけつつ、じっと乳房を抱きしめて、鏡の影に甘えるような微笑ほほえみを送って見たりもした。
そうして、あきずに鏡の中の自分自身と、無言の会話を取交していた時、彼女はふと、目の隅に、何かしら異様なものを感じた。
すぐ鏡の横の締切った窓の戸は、下の方は皆りガラスであったが、上部の一駒丈けが透明なガラスになっていた。外は殆ど暮れ切っているので、その透明の部分だけが、真黒に見える、そこに異様な物の影が動いたように感じられた。
(見ちゃいけない。見ちゃいけない。きっと、きっと、あいつがのぞいているのだ)
と思うと、ゾーッと寒気がして、呼吸が苦しくなって、鏡の中の全身が見る見る青ざめて行くのが分った。
だが、見まいとすればする程、心とは離れ離れに、目だけが、恐ろしい力で、その方へ向いて行くのを、どうすることも出来なかった。
彼女は見た。
夢なのか、幻なのか、イヤイヤそうではない。恐れに恐れていたものが、とうとう現われたのだ。
そこには、透明ガラスの一駒一杯に、鉄格子の外から、悪夢にばかり見ていた顔が、現実となって覗いていたのだ。
闇の中に浮き上った、あの恐ろしい程無表情な顔。大きな青眼鏡をかけて、濃い口髭を生やして、鳥打帽をまぶかに冠った、あの顔。
珠子はその恐ろしい顔を見つめたまま、まるで見えぬ手に抱きすくめられでもしたように、じっと立ちすくんでいたが、やがて、彼女の真蒼な顔が、べそをかくように歪んで、下顎したあごがガクガクと震えたかと思うと、精一杯の力で口が開いて、「ヒーッ」というような、一種異様の甲高かんだかい悲鳴が、湯殿の壁にこだまして、物凄く響き渡った。
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