人罠
麹町区六番地の陰気な
三笠氏のやり口は、何につけても非常に風変りであったが、この邸宅などは、中にも
守青年は、その門前で自転車を降りて、
ベルを押したかと思うと、待ち構えていた様に、ドアが開き、拳闘選手みたいにいかめしい男が顔を出して、
「相川さんですか。先生はさっきからお待ちしています。お通り下さい」
入った所はホールになっていて、その正面に、二階への階段の彫りもののある
「こちらです」
と、男は先に立ちながら、
「相川さん、今晩は用心しないといけませんぜ。先生はひどく不機嫌です。いつも余り機嫌のいい人じゃありませんがね。今晩は殊にひどいですよ。さい前帰ってから、書斎に
と親切に注意してくれる。見かけによらない好人物と見える。
「この
そういう噂を聞いてはいたけれど、建物が広過ぎる様に感じたので、訊ねて見ると、
「そうです。先生は女嫌いです。奥さんは一度も持たなかった相です。僕もまあ女嫌いですがね。ハハハ……」
薄暗い廊下を曲り曲って、やっと名探偵の書斎に来た。廊下の造り方さえ迷路の様だ。
男はドアをノックして、「相川さんです」と呶鳴った。
すると、中からドアが細目に開いて、鬚もじゃの顔がチラッと覗いたが、低い
「相川さんだけお入りなさい。お前はベルを鳴らすまで用事はない。あっちへ行っていなさい」
と云った。
(
机も椅子も非常に古風なもので、現代人の目には、いやらしい程彫刻が施してある。殊に椅子の背中の
三笠氏は、客にお掛けなさいとも云わず、サッサと自分丈け、その椅子に腰を
実に変なお爺さんだ。五十五六歳の様に聞き覚えていたが、見た所では六十以上にも思われる。頭も鬚も
服装は、カラも何もない
守が一通りの
「どんな用件だね」
と、不愛想に訊ねた。
「実はこの頃新聞で騒いでます妖虫事件についてお願いに上ったのです」
妖虫事件と云えば、三笠氏はきっと興味を感じて、乗り出して来るに違いないと予想していたのに、一向そんな様子は見えぬ。
「ウン、それで?」
と先を
守は、谷中の空家での隙見から、
「私達は妹の危険を除くことが第一の希望なのですが、犯人が逮捕されれば、これに越したことはありません。どうでしょう。この事件を引受け下さる訳には参りませんでしょうか」
守は言葉を切って、じっと相手の返事を待っていたが、老人は、やっぱりこちらをジロジロ眺めながら、
「どうでしょうか、先生。
「君は、それを僕に頼みたいと云うのかね」
三笠氏の声の調子が少し変った様であったが、守はそこまでは気附かず、ただ相手の質問の意味が分り兼ねて、答えに迷った。
「君に聞くがね、君は一体誰と話をしていると思っているんだね」
オヤ、変だぞ。この爺さん気でも違ったのじゃないかしら。
「無論、先生とです。先生に犯罪事件を御依頼しているのです」
「先生て、誰だね」
「三笠龍介先生です」
守は余り馬鹿馬鹿しい質問にムッとして、思わず声が高くなった。
「ホホウ、三笠龍介。僕がその三笠龍介だとでも云うのかね」
それを聞くと、守はギョッとして、腰を浮かさないではいられなかった。
(この
「僕は三笠先生をお訪ねしたのです」
「ホウ、そうかね」
「じゃ、あなたは、この
「マア、主人みたいなもんだ」
老人は鬚の中から、ニヤニヤ笑っている。
「それなら、三笠先生でしょう」
「そう見えるかね」
「エ、何ですって?」
「そう見えるかと聞いたのさ。俺も変装がうまくなったものだなあ。ハハハハハハ……」
守はピョコンと立上って、椅子を
「君は誰だ。なんだって、こんないたずらをするのだ」
老人は腰かけたまま、平気でニヤニヤ笑っている。
「いたずら? フフフ、いたずらよりゃ少し気の利いたことだよ。
「じゃ、なぜだ。なぜそんなことをして僕をだましたのだ」
「君を
「俺達だって? すると貴様は……」
「ハハハ……、やっと分ったね。云ってごらん、その次を」
「赤い蠍」
「ウン、その通り。君はなかなか頭がいいよ。ハハハ……」
あの鬚をむしり取って見なければ、こいつが青眼鏡の本人かどうかは分らない。併し殺人鬼の同類には
さい前案内の男を室内に入れさせなかった理由が、今こそ分った。こいつは本物の三笠氏ではないものだから、初対面の守はごまかせても、弟子の前に顔を曝す程自信がなかったからだ。
「で、僕をどうしようというのだ」
「殺しはしない。安心し給え。ただちょっとの間、窮屈な思いをして
併し守青年は、この毒舌を半分しか聞かなかった。アッと思う間に、彼の踏んでいる床板が、消えてなくなったからだ。
グラグラと
「ハハハ……、マアごゆっくり」
遠くの世界から、そんな声が聞えて来た。痛さをこらえて見上げると、遙かの天井に四角な白いものがある。
(アア、あれが
心のどこかで、そんなことを感じながら、半ば無意識にグッタリなっている内に、天井の穴はパッと閉じられてしまった。
見れども見えぬ、
咄嗟には何の思案も浮かばなかった。ただ兇賊の底知れぬ魔力に、あっけにとられるばかりであった。
だが、段々心が静まるにつれて、打身の痛さと、地底の冷気が、身にしみて感じられた。それよりも、彼を取り囲む
こんな所へ落込んだら、誰かが助けてくれぬ限り、二度と日の目を見ることは出来ないかも知れぬ。俺はこのまま永久に闇の底に閉籠められたまま、飢えと寒さに死んで行く運命なのではあるまいか。守は心弱くも、そんなことさえ考えた。
ふと気がつくと、闇の中に、何かしら物の気配が感じられる。どうやら呼吸の音の様だ。誰だ。若しや敵が命を奪いにやって来たのではないかしら。それとも、この穴蔵には、何かの
守は地面に横わったまま、首丈けをもたげて、じっと耳を澄ました。空耳ではない。確かに息遣いの音だ。何かしら生きものが、暗闇の中に蠢いているのだ。