八裂 き蝋 人形
守青年はそれからどうしたか。痛手を負った三笠老探偵は、果して無事に火中を脱することが出来たか。彼を傷つけた張子の岩の中の人物は
さて、前章の出来事のあった翌日の午後、東京市内のあちこちに、じつに変てこな事件が続発した。
第一の事件は、午後三時頃、大川の
「ワア、大変だア」
という頓狂声に、亭主の船頭が近づいて見ると、バケツの中に浮いているのは、確かに人間の、しかも
「飛んだものを掬い上げちまったなア。だが捨てる訳にも行くめエ、そこへソッとして置きな。今に水上署のランチが通るだろうから」
女房は云われるままに、バケツを船の上に置いて、「オオ、気味が悪い」と遠くへ逃げてしまう。亭主の方も、存外臆病者と見えて、近寄って調べて見ようともしない。
そうしている所へ、折よく、川上から水上署の旗を立てた小型ランチがやって来た。それが近づくのを待って、船頭が声をかけると、「人間の腕」という言葉に、ランチの人々は
船頭と違って、水上署の人達は、土左衛門なんかに驚きはしない。二人のお巡りさんが、先を争う様にして、バケツに近づき、その指のついた白っぽいものを、最初はそれでも、少々無気味そうに、靴の先でチョイチョイ
掴み上げて二三度、目の前でクルクルと廻していたが、やがて我慢が出来ないというように、
「オイオイ、お前、これを何だと思っているんだ。こんなもので青くなってどうするんだ。よく見ろ。蝋細工じゃないか。人形の腕だよ馬鹿馬鹿しい」
如何にもそれは人騒がせな人形の腕に過ぎなかった。だが、流石の水上署員も、一目見た時には、本物の若い女の片腕だと思い込んでしまった程、実によく出来た蝋細工であった。色と云い、形と云い、切口のグジャグジャになった所と云い、触って見てコツコツ音がするまでは、誰の目にも本物の生腕としか見えなかった。
それと殆ど時を同じうして、陸上では、木挽町の裏通りに、似た様な騒ぎが起っていた。
ある料理店の勝手口に、黒く塗った大型の
ルンペンは、船頭の場合とは違って、目に見るよりも先に、指で触ったものだから、その手触りで、蝋細工だということがすぐ分った。
「だが、なんてマアよく出来た蝋細工だろう」
彼はそれを掴み出して、
すると、なぜそんな突拍子もない事が起ったのか、通り魔の様に異様な出来事であったが、その辺を嗅ぎ廻っていた一匹の野良犬が、いきなり蝋細工の女の生腕を
道行く人々も、怪奇小説の銅版
御用聞きの小僧さん達は、見送ったばかりでは済まさぬ。何かその辺に落ちていた棒切れを拾って、わめきながら追っかける。
「ヤア、人間の腕だ。人間の腕を銜えてやがる」
そんな叫び声が口々に繰返されるものだから、両側の商家から、主人も、おかみさんも、小僧さんも、飛出して来て見送る。中には追手に加わって走り出すのもいる。
大げさに云うと、町中の人が、一隊をなして、まるで暴動ででもある様に、黒く折重なって走り出した。てんでに手や棒切れを振りながら、訳の分らぬ事をわめきながら。そして、その先頭に立って、彼等の一隊の司令官の様に、とりすまして、スタコラ走っているのは一匹の野良犬。その口には、今切離したばかりの様に生々しい人間の腕。実に何とも形容の出来ない変てこな光景であった。
この騒ぎがお巡りさんの耳に入らぬ訳はない。やがて、制服いかめしいお巡りさんの野犬追跡の一場面があって、結局問題の蝋人形の腕は、附近の交番の土間の片隅に落ちつくことになった。
あとで分ったのだが、大川で水上署員が目撃したのは女の右腕、木挽町で犬が
それから少したって、今度は銀座裏のとある横町に、いつとはなく黒山の人だかりが出来ていた。狭い町を通行止めにして、ギッシリ詰った群集が、一様に仰向けになって、ドンヨリと曇った空を見上げていた。
「一体なんですい。飛行機ですかい」
新しく加わった一人が前の男に訊ねている。
「イヤ、そうじゃねえんで。飛行機なんかで、今時こんな人だかりが出来るもんですか。ごらんなさい。ホラ、もっと下だ。あの煙突のてっぺんだ」
云われて見ると、そこには、
「しばらく見つめていないと分らない。じっと見ててごらんなさい」
白いものが二本、斜に煙突の口から、空に向って
「ワア、足だ。人間の足だ。しかも
その人は思わず大きな声を立てないではいられなかった。
「どうしたんでしょう。まさかああして煙突掃除をしている訳でもありますまい。煙突掃除屋の足にしちゃ、あんまり
「そうですよ。それに、さっきから見ているのに、ちっとも動かないのが変ですよ。あんなことをして、煙突の中へ首を突込んでいちゃ、下では火を焚いているんだから、さぞ熱いでしょうにね」
「イヤ、熱かあないんですよ。あれは死骸ですよ。ああして自殺をしたんですよ」
別の一人が口をはさむ。何てまあ変てこな会話であろう。
「自殺ですって。フフ、奇抜な自殺もあったもんだなあ。併し、なぜ
「イヤ、自殺じゃありませんよ」群集の真中から一人の青年が
「ハハハ……、そんな馬鹿な話ってあるもんじゃねえ。態々煙突の上まで昇って、人殺しをする奴もねえもんだ」
誰かが笑い出す。
「ア、誰か梯子を昇って行く。お巡りさんだ。お巡りさんだ。今に正体が分りますよ。あれがどこの娘だか」
警官がやっと頂上に昇りつくと、びっくりする程美しい女の足が、大空を背景にして、実に不作法な恰好で、すぐ目の前にニュッと突出していた。
その
「俺一人じゃ
彼は用心深く、熱い煙突の縁につかまって、煙をよけながら、ソッと中を覗いて見た。
そこには、二本の脚に続いて、娘の胴体が、多分
胴体は勿論、顔も、手も、なんにもなくて、ただ太腿からの両脚だけが、煙突の縁を支えにして、
ちょん切られた二本の、ムチムチとよく太った女の脚、――煙の立昇っている煙突のてっぺん、――見る限り何もない白い空。
日常生活から余りにかけ離れた、この一種異様の光景に、若い警官は
地上の群集は、中には双眼鏡などを持出して、熱心にこの有様を眺めていた。あの勇敢なお巡りさんは、今にも裸体の娘の死骸を肩に担いで、鉄梯子を降りて来るに違いないと、激情的な光景をまざまざと眼底に描きながら。
併し、群集の期待は、実に突拍子もないやり方で裏切られてしまった。
見ていると、お巡りさんは、一本の脚に手をかけたかと思うと、それを、スポンと抜取ってしまった。そして、何だかゲラゲラ笑っている様子で、その脚をヒョイと空中に投出したのだ。次には、残りの一本の脚も、同じ様にして、空中へ。
白い二本の太腿が、相前後して、異様な
読者がとっくに想像された通り、その二本の脚が、やっぱり蝋細工であった。流石に今度は笑って済ます訳には行かなかった。警察はこのご念の入った
群集の中の一青年の主張する所によると、
それよりも、見物の中のある老人が、分別らしく主張した次の説の方が、何となく本当らしく思われる。
「あの足は、今朝っから煙突の上に生えていたんですよ。それを誰も気づかなんだ。イヤ気づいても、人間の足とまで見定めるものがなかったのでしょう。こんな騒ぎになったのは、つい先頃、誰かが足だ足だと叫び出してからですよ」
つまり、それは昨夜の内に、何者かが煙突の上へ運んで置いたというのである。
だが運んだ時が夜であれ昼であれ、この出来事の不思議さには、少しも変りがなかった。一体全体何を目的に、こんな途方もないいたずらが行われたのであろう。ただ人騒がせの
それは兎も角、椿事はこれで終ったのではない。「煙突に生えた足」にも劣らぬ奇怪事が、殆ど時を同じうして、やはり銀座通りの、
一人の工夫が、下水の故障を調べる為に、そこの道路の真中に開いているマン・ホールの鉄の蓋を取りのけて、四ん這いになって、暗い地下道を覗いていたかと思うと、
「オイ、ちょっと見てくんな。俺の目がどうかしているのかも知れない。変なものがいるんだ、こん中に」
「なにがよ」
「なにがって、マア覗いて見な。とてもシャンだからよ」
「シャンだって? お
あとから来た工夫は、こいつ気でも違ったのかと、変な顔をして、そのマン・ホールを覗いて見た。
小さい穴から射し入る空の光が、底を流れる黒い水を、薄ぼんやりと照らしている。その水の上に、覗いている工夫自身の顔が写っているのかと疑われる、一つの顔が、美しい女の顔が、流れもせずに浮んでいた。
四ん這いになってマン・ホールを覗き込んでいる男の顔と、黒い水に浮ぶ夢の様な女の顔とが、
白昼の銀座近くの人通りだ。覗き込む工夫の眼の隅には、忙しそうに歩いて行く人影がチラチラと映っている。地上の世界は、何の変りもなく、昨日も今日も同じ様に運転しているのだ。その慌しい現実世界から、ヒョイと
その薄汚い闇の中からじっと見上げている女の顔の、この世のものとも見えぬ美しさ。もう一人の工夫がシャンだと云ったのは嘘ではなかった。夢にもせよ、幻にもせよ、よくもまあ、これ程美しい女がと、彼は首をマン・ホールに突込んだまま、飽かず眺め
だが、ふと夢見心地から醒めて見ると、
「オイ、こりゃ人殺しかも知れないぜ。殺した死骸を、こうしてマン・ホールから投込んで置いたのかも知れないぜ」
「ウン、何しろお巡りにそう云って来よう」
一人が駈け出して、附近の交番から警官を引っぱって来る。忽ち人だかりだ。
それから、二人の工夫はかかり合いで、警官に頼まれるまま、散々不気味な思いをしながら、下水の中から問題の死骸を引っぱり上げたのだが、読者も大方お察しの通り、その死骸には胴体も手足もついていなかった。つまり、それは一個の実によく出来た蝋人形の首に過ぎなかったのだ。人形の首に重りをつけて、流れぬ様に浮かせてあったのだ。