第三の犠牲者
銀座街頭ショウ・ウインドウ死体陳列事件が犯罪者の虚栄心からであったとすれば、彼は完全に成功したと云っていい。なぜと云うのに、その事があってから、妖虫殺人団の名は、一躍して全国的になったからだ。その翌日は、九州や北海道の地方新聞さえ、社会面の殆ど全面を、この銀座の怪事件に費した。人々はこの怪談めいた出来事に、賊の
だが、敵は眼にも見えぬ幽霊の様な奴だ。警視庁の全能力を以てしても、どうにも出来ない相手だ。二日三日は、珠子の葬儀などにとりまぎれて、知らぬ間に過ぎ去ったが、五日十日と日がたつにつれて、守青年はどうにも出来ない
警察は一体何をしているのだ。あの完備した大組織の力でも、たった一人の
アア、三笠探偵が丈夫でさえいてくれたら、今頃はもう、賊が捉まっていたかも知れないのに。その頼みに思う三笠龍介氏は、三河島の見世物小屋で、
守青年は、ただイライラするばかりで、何の考えも浮ばなかった。こうしてはいられないと思いながらも、自宅にとじ籠っている日が多かった。
その日も、彼は書斎の机によりかかって、両手の指で頭の毛を掻き乱しながら、
この醜いけれど上品な未亡人は、我子の様にいつくしんでいた珠子の死に遭って、病気になるのではないかと案じられる程、
「アア、殿村さん」
守青年はドアの音に振返って、元気のない声で云った。
「まだ考え事をしていらっしゃるの? いけませんね、そんなにくすぶっていらしっちゃあ」
殿村さんは、気がかりらしく眉を寄せて守の顔を覗き込む。
「どうでした。
青年は、てれかくしのように、別の事を訊ねた。桜井というのは、今度殿村未亡人が勤めることになった家の名なのだ。
「エエ、大変結構ですわ。それに、お嬢さんがすなおな、それはそれはお美しい方で、……アラ、こんなことあたしが云わなくても、守さんはよく御存知でしたわね。ホホ……、お嬢さんから、よろしくとおっしゃいました」
からかわれて、守青年はドギマギと目のやり場に困った様子であった。少しばかり赤面さえした。すると、彼は桜井のお嬢さんに、ただ妹の学友として知合いである以上に、何かの感情を抱いていたのであろうか。
「でも、あたし、桜井さんへ上ることは止そうかしらと思いますの。実はそれについて、守さんの御意見を
突然、殿村未亡人が妙なことを云い出した。
「どうしたんです。やっぱり気に入らないことがあるのですか」
「イイエ、そうじゃないのですけれど、……守さん、あたし、いやなものに
そして、彼女は俄かに非常に真劒な表情になって、じっと守の眼を見つめながら、聞えるか聞えないかの囁き声になって云うのだ。
「あいつが、また現われ始めたのですよ。あたしが桜井様のお嬢さんと二人きりで、さし向いでお話していました時、ヒョイと気がつくと、マア、ゾッとするじゃありませんか。お嬢さんの着物の肩の所に、……アレが、エエ、アレよ。赤い蠍! いつかの珠子さんの時とおんなじ奴が、お嬢さんの肩にとまっていたじゃありませんか。……」
「殿村さん、それ本当ですか」
守青年は、ギョッとして、彼も妙に低い声になって、思わず聞き返した。
「お嬢さんをビックリさせてはいけないと思って、黙っていたのですけれど、あたしの怖がっている目つきで、お嬢さんにもそれが通じたと見えて、サッと青くおなりなすって、思わず立上って身震いなさると、あの赤い虫の死骸が、ポトリと床へ落ちたのです」
「ウン、それで?」
「お嬢さんは、余程怖かったのでしょう、叫び声を立てて、いきなりあたしにすがりついてお
「で、
品子さんというのは桜井令嬢の名だ。
「それが分りませんの。気味が悪いではありませんか。お嬢さんは、着換えをしてから、一度も外出もなさらず、又外からのお客さまに会ってもいないとおっしゃるのです。アア、又目に見えない幽霊がうろつき始めました。その蠍が
「じゃ、あなたが品子さんに最初会った時はどうでした」
「無論最初からあの虫はくッついていたのですわ。それを
「じゃ、あの畜生め、今度は品子さんを餌食にしようっていうのだな。アア、どうすればいいんだ。で、警察へは届けましたか」
「エエ、あちらの御主人がお電話をかけていらしったようでした。あたし、それから
「では、あなたは、品子さんが、あいつの為に殺されると思うのですね」
「エエ、恐ろしいことだけれど、そうとしか……」
そして、二人はうそ寒い曇り日の、窓の光の中で、黙ったまま、異様に目と目を見合わせた。お互の瞳の中に、何かゾッとする魔性のものが潜んででもいるように、恐怖にわななきながら、
「三笠さんは御容体どうなんでしょう」
やっとしてから、殿村さんが、ふと気を変えて、別の事を訊ねた。
「まだ急に退院出来
「エエ、でも、今日は少し差支がありますから、……あなたから、よく今度のことをお話し下さいませんか。あたし、三笠さんには、いずれゆっくりお目にかかって、よく御礼申し上げたいと思っているのですけれど……」
殿村さんはそう云って、なぜかニッコリ笑った。守は彼女のこういう
だが、一瞬間「オヤッ」と思ったばかりで、殿村さんの笑顔が素早く消え失せると同時に、彼もその事を、つい忘れてしまったのだけれど。
病探偵
その晩、夕食後に、守青年は、父操一氏にも話をした上、病床の三笠老探偵を訪ねた。
三笠氏は、そこの院長と懇意な関係から、自宅に近い麹町外科医院という、小さい病院へ入院していた。
余り立派でない西洋館の玄関を入ると、消毒剤の、どっか身内のうずくような
「三笠さんに御面会ですか。あなたは……」
彼は、守をジロジロ見ながら、何か警戒する様なうさんな口振りで訊ねた。
「相川守というものです。三笠さんに御伝え下されば分ります」
守は少しムッとして答える。
「余程御懇意な方ですか。でないと、実は、面会は禁じられているのですが」
事務員は奥歯に物のはさまった様な、妙な云い方をする。
「じゃひどく悪いのですか」
「エエ、今朝から病勢が悪化しているのです。それに、少し事情がありますので……」
「いずれにしても、一度取次いでくれませんか。どうしても面会出来ない様なら帰りますから」
事務員は、又しても、守の姿を、頭のてっぺんから、足の先までジロジロと眺めてから、
何だか変だ。もう余程よくなっていなければならない時分なのに、突然悪くなった様なことを云う。そして、あの警戒ぶりはどうしたというのだろう。何かあったのではないかしら。
異様な不安を感じながら、
「御面会なさるそうです。どうかこちらへ」
と先に立った。
「病勢が悪化したと云うのは、どんな風なのですか。傷口が
守が彼のあとについて歩きながら訊ねると、事務員は、少し声を低くして妙なことを云った。
「イイエ、傷の方は、もう殆ど治っていたのですが、実は思いがけないことがありましてね。三笠さんはひどい目に遭われたのです。御商売柄敵の多い方ですからね」
敵という言葉に、守はすぐ「赤蠍」を思い浮べた。若しやあいつが、探偵の病床へまで魔手を伸ばしたのではないだろうか。
だが、それを確める間もなく、もう病室であった。事務員はそのドアをソッと開けて、お入りなさいという目くばせをした。
病室というのは、病院の裏手に当る、階下の十畳程の洋間であったが、態と薄暗くした電燈の下に、白いベッドの中から、さも苦しげなうめき声が、不気味に漏れていた。
守が入って行くと、附添いの看護婦が、病人にそれを告げて、ソッと頭の向きを変えてやった。真白なシーツの中から、年取った探偵の白髪白髯の顔が、
その顔を一目見ると、守青年は、ギョッとしないではいられなかった。アア、何という変り方であろう。三笠氏は元々痩せてはいたのだけれど、それが一層ひどく頬骨が出て、顔の皮膚は青いのを通り越してまるで
「三笠さん、相川です。ひどく元気がない様じゃありませんか。一体どうなすったのです」
守は痛々しく病人の顔を覗き込みながら云った。
老人は、見舞人を認めた様子で、少し眼を動かしたが、物を云うのが一通りならぬ骨折りらしく、
「アア、ま、もる、
「どうしたのです。何かあったのですか」
守は看護婦を
「エエ、わたくし詳しいことは存じませんが、何でも、誰かから送って来た品物に毒薬が仕掛けてあって、それが三笠先生の
と看護婦は不安らしく云う。
「いつの事です、それは」
「今朝程でございます」
「その品物っていうのは、郵便で来たのですか。そして、差出人は誰だか見当はつかないのですか」
「エエ、それが、何ですか、……」
彼女は口留めされているのか、知ってはいるけれど答えられないという様子だ。
「若しや、例の『赤い蠍』じゃありませんか。それなら僕も少しかかり合いの者なんだが」
「エエ、実は、三笠先生もそうおっしゃるのでございます」
彼女は「赤い蠍」という言葉に、サッと顔色を変えて、さも恐ろしそうに身をすくめた。
そうして彼等が、隅の方でボソボソと囁き合っていた時、突然、ゾッとする様な恐ろしい叫び声が聞えた。叫び声というよりは、寧ろ野獣の
「アラ、いけませんわ、そんなに御動きなすっては」
看護婦がベッドへ飛んで行って、もがく病人を
アア、その形相のすさまじさ。額には静脈がムクムクとふくれ上って、昂奮の余り顔色は紫に変じ、両眼は飛び出すばかり見開かれ、口は真夏の日中の犬の様にだらしなく開いて、
「君、ここは僕がいるから、早く院長を呼んで来てくれ給え」
守もしがみつく様にして、病人の起き上ろうともがくのを押えながら、看護婦に叫んだ。
「では、ちょっとお願いいたします」
彼女は
三笠探偵の恐ろしい苦悶は、二三分間程続いたが、その間中、彼の目は、裏庭に面している窓のガラス戸へ釘着けになっていた。
守はふとそれに気づいて、思わずその方を見ると、真暗な窓の外に、何かしらチラと動いたものがある様に感じられた。ほんの一刹那ではあったけれど、彼の
幻影かしら。イヤ、幻影なれば、病人が同じ様に窓のその箇所を見つめている筈がない。何者かは知らぬが、窓の外から、ジッと室内を覗き込んでいた奴があったのだ。そして、妖星の様に光るあの二つの目が、奇怪な呪いの力を持っていて、三笠探偵をかくも狂わせているのだとしか考えられなかった。
そう思うと、四角に区切られた、窓の外のうそ寒い闇が、異様にもの恐ろしく、押えても押えてもはね返す病人の狂乱が、ただ事ならず不気味であった。彼は何かしら目に見えぬ理外の力と争っている様な、一種異様の恐怖を禁じ得なかった。
老人の解し難い発作は、守青年には非常に長く感じられたが、実は二三分程で、ケロリと納まった。突然、
そこへ、やっと院長の医学
やがて、窓をしめて、ベッドの所へ戻って来ると、院長は別に詳しく診察した様子もないのに、もう病室を引上げそうにしていた。
「心配した事はないのでしょうか。素人にはひどく悪い様に見えるのですが」
守は簡単に挨拶したあとで、訊ねて見た。
「イヤ、悪いと云えばひどく悪いのだが、併し、御心配なさる事はありませんよ。マア、ゆっくり話して行って下さい」
何だか変な具合だ。この重態の病人を放って置いて、冗談らしく笑いながら出て行くとは、この医者はどうかしているのではないかしら。
ベッドの病人を見ると、やっぱり瀕死の形相物凄く、今にも絶え入り相にうめいている。
「三笠さん、苦しいですか。もう少し先生にいて頂く方がよくありませんか」
三笠探偵のしなびた顔を覗き込んで訊ねると、老人は幽に首を振って、
「イヤ、き、きみに、すこし、話したい、ことがあるので、あの、ひとだちに、座を、はずしてもらったのだ」と、息切れしながら、やっと云った。
それから、骨ばっかりの様な手を挙げて、例の窓の方を指さしながら、
「カーテンを……」
と云う。
「カーテンをしめるのですか」
ああ、やっぱりあの人影に気づいていたのだ。あの二つの目が怖いので、カーテンをしめよという意味に違いない。
守は立って行って、二つの窓のブラインドをおろし、その上にカーテンを注意深く引き合せて、元の椅子へ戻った。
「すき間のない様に、だれも覗かない様に」
病人が念を押すので、もう一度立って、どこにも隙間のないことを確めて帰った。そして、病人に話しかけようとした時である。
「ウフフフ……」
実に突然、ベッドに
何ということだ。可哀相な老探偵は、とうとう気が狂ってしまったのかしら。