螯 が! 螯が!
妖虫殺人団が第三の餌食と狙う桜井品子さんは、富豪代議士桜井
桜井品子は、その様に美しさでもズバ抜けていたけれど、その上彼女は美貌以上の才能に恵まれていた。品子は楽壇にも聞えたヴァイオリンの名手であった。少女時代
品子が愛友相川珠子の惨死を歎き悲しんだことは云うまでもないが、悲しみは忽ちにして恐れと変らなければならなかった。赤蠍襲来の不吉な予報が、既に彼女を襲い始めたからである。ある日、彼女の新しい家庭教師殿村夫人が、真蒼になって品子の肩の辺りを見つめた。ゾッとして
品子はこの奇妙な出来事が何を意味するかを、よく知っていた「赤い蠍」は殺人鬼の
彼女の繊細な神経は、恐怖の余り、変調を来たさないではいられなかった。品子はその夜から、えたいの知れぬ悪夢にせめさいなまれた。
見る限り灰色の大空に、何かしら途方もなく巨大な生きものが、
そいつの身体は、大空の
そいつの胴体は、沢山の関節から出来ていて、その関節の一つ一つが、大戦闘艦程の大きさを持っていた。
海底の生きものの様にボンヤリとしか見えなかったけれど、そいつには、馬鹿馬鹿しく大きな顔があった。顕微鏡で拡大した毒蜘蛛の頭部の様な、醜怪
そいつには又、太古の生物恐竜そっくりの、見るも恐ろしい尻尾があって、それがいまわしい黒い虹の様に醜く
蠍だ。空一杯の黒雲の様な蠍だ。歯ぎしりの出る程いやらしい蠍の腹部だ。それが、今にも品子をおしつぶさんばかりに、目を圧して迫って来るのだ。
何とも形容の出来ない、恐ろしい悲鳴を発して、彼女は目覚めた。見廻すと、そこは白い寝室であった。ベッドの
品子は、全身
カーテンが
品子の寝室は洋館の階上に
「大丈夫、大丈夫、窓の外には人間のよじ昇る足場なんてありやしないのだから」
彼女は、高鳴る心臓をおし静める様に、自分自身に云い聞かせた。
だが、人間はよじ昇れなくても、虫なれば、蠍なれば、苦もなく這い上って来るかも知れない。
ふと、そんなことを考えて、彼女は思わず身震いした。
窓の外を、非常に大きな虫類が、ゴソゴソと這い上っている幻想が、今の悪夢の続きの様に、彼女を戦慄させた。
「どうかしているんだわ、あたし。そんな馬鹿馬鹿しい事があっていいものですか」
品子は我れと我が幻想を笑い消そうとした。
併し、あれは何だろう。木の枝かしら、木の枝が、あんな窓の近くにあったのかしら。
黒いガラス窓の下隅に、何かしら
「木の枝に違いない。何でもありゃしない」
本当に木の枝かしら。それが夜風に揺れているのかしら。でも、風があんな
その物は、徐々に大きくなって行く様に見えた。窓の
赤黒い
品子は金縛りに逢った様に、もう身動きする力もなかった。心臓丈けが、全く別の
「きっと気のせいだわ。あたしは幻を見ているのに違いない」
気安めを云って見ても、彼女の直覚が承知しなかった。こんなハッキリした幻なんてあるものか。何かしら窓の外を這い上っているのだ。現にあの棍棒の様なものが、ガラスの
やがて、そのものは、それと分る程の姿を現わした。二つに折れ曲った関節、ゾッとする程巨大な平家蟹の螯、ガラス板にぴったり吸いついた赤黒い螯、それがワクワクと物を噛む形で開閉しているのだ。
赤い蠍!
アア、夢ではない。夢がそのまま現実となって現われたのだ。悪夢の
夢ならば醒めることもあろう。だが、現実には全く救いがない。螯の次には、あいつの醜怪な顔が、ソッとこちらを覗き込むに違いない。それから、針の様な毛の生えた全身が、目まぐるしく動く沢山の脚が、醜くひん曲った尻尾が……。
余りの恐怖に、品子の五体のあらゆる機関が活動を停止して、全身が底知れぬ深海へ落込んで行く様に感じられた。青黒い水の層の中を、スーッと沈んで行く。沈むに従って水の層は益々暗くなって行く。そして、遂には