ビルディングと蠍
その翌日、帝都の二ヶ所に、常識では判断も出来ない奇怪事が突発した。一ヶ所は丸の内のオフィス街の真中に、一ヶ所は桜井邸の二階大広間に。
我々は順序として、先ず
その妙にうそ淋しい、ガランとしたアスファルト
時たま、眠そうな顔をした運転手の空自動車が、スーッと通り過ぎて行く
起きているのは、ビルディングの地階に住んでいる管理人や
事務員は半町程先から、Sビルディングの入口の前に横わっている、一種異様の物体に気づいていた。
酔っぱらいが寝ているのかしら。それとも行路病者かしら。だが、変だな。あいつ真赤な着物を着ているぜ。
堂々空を圧する白堊の建築物と、美しく掃き清められたペーブメントと、凡て直線的な均整の中に、これは又ひどく
やがて、
それは人間ではなかった。何かゾッとするようないやらしい、一種の生物であった。一口に云えば、
事務員は立ちすくんでしまった。
その怪物は生きているのか死んでいるのか、じっと横わったまま、少しも動かなかった。巨大な螯がニューッと頭の上に突き出し、光沢のない、べら棒に大きな両眼が、こちらを見つめているけれど、別に飛びかかって来る様子はなかった。
事務員は立ちすくんだまま、いつまでも、そいつと
それは、建物の前に横わっている怪物と、寸法を合わせようとする、心理的錯覚であった。ビルディングがおもちゃみたいに縮小された時、それに比例して怪物を一匹の虫のように小さく考えた時、初めてそのものの正体が明瞭になったのだ。
事務員は今度こそ、心底からびっくりしないではいられなかった。
「蠍だ! 赤い蠍だ!」
しかも、並々の蠍ではない。千倍万倍に拡大して、人間程の大きさを持った、化け蠍であった。
タ、タ、タ、タ、……丁度その時、一人の
「オイ、君、ちょっと待ち給え」
事務員は配達夫を呼びとめて、さも恐ろしそうに、怪物の方を指して見せた。
「ワーッ、何だい、あれゃ?」
若い配達夫は、ギョッと立止って、臆病を隠すように、頓狂な声を揚げた。
「よく見給え。あれは蠍という毒虫の形をしているじゃないか」
「エッ、蠍ですって? アア、そうだ。真赤な蠍だ」
二人は脅えた目を見合せて黙ってしまった。彼等はこの頃世間を騒がせている、恐ろしい殺人鬼の紋章について、知り過ぎる程知っていたからである。
ふと見ると、Sビルディングの小使の爺さんが、何気なく入口に現われて、そこの石段を降りようとしている。
「いけない、おじさん、そこをごらん。変なものがいるぜ」
配達夫が大声に叫んだ。
小使は注意されて、ヒョイと目の前を見ると、びっくりして、いきなり入口の中へ二三歩逃げ込んで行ったが、やっと踏み
つい先程、その辺を掃除した時には、何もなかったのに、忽然として天から降ってでも来たように、出現した怪物に、小使さんはあっけに取られているのだ。
やがて、二人三人とやって来る早い出勤者や、その辺の地階に住んでいる人達が、怪物を遠巻きにして、円陣を作ってしまった。
いくら騒いでも、怪物が微動さえしないので、人々は段々大胆になって、一歩一歩円陣が
「ナアンダ、
威勢のいい若者が、いきなり怪物に近寄って、その頭部をコツコツ叩きながら叫んだ。
「科学博物館の動物標本室にこんなのがあったっけ。あいつを盗み出して捨てて行ったんじゃないか」
誰かが、うまい想像説を持出した。
「ともかく、どっかへかたづけてしまう方がいい。邪魔っけで仕様がない」
事務員の一人が命令するように云うと、二人の小使が、オズオズと巨大な虫のそばへ寄って行ったが、まだ手をつける勇気はなく、足を使って、道路の隅の方へ転がそうとした。
「なんだか、べら棒に重うがすぜ」
ウンと力を入れて、
怪物の二本の巨大な螯は、転がされた反動でブルブル震えていたが、その震えがいつまでたってもやまなかった。やまないばかりではない。螯は明かに怪物の意志によって動き始めたのだ。
やがて、二本の螯が、頭の上で、大きく半円を描いたかと思うと、今度は、巨大な虫の全身がモゾモゾと動き出して、まともに起き返ろうと
忽ち「ワーッ」という叫び声と共に円陣がくずれた。気の弱い連中は、顔色を変えて、向う側の建物の中へ逃げ込んでしまった。
「生きている! 生きている!」
人々の間に、驚愕の呟きが拡がって行った。
熱帯国には様々の巨大な生物が棲息するという事だ。
「アア、分った。あれは人間だぜ。人間があんな変てこな虫の衣裳を着ているんだぜ」
誰かがやっとそこへ気がついて叫んだ。
云われて見ると、外側は確かに拵えものの衣裳に相違ない。動いているのは中の人間なのだ。巨虫の殻を被った人間なのだ。
「T劇場でこんな芝居をやっているんじゃないのかい」
一人の若い事務員が、そんなことを云った。
近くにあるT劇場の楽屋から、扮装のまま這い出して来たというのは、面白い想像であった。だが、T劇場にはそんな昆虫劇など演じられてはいなかったのだ。
人間と分って安心した小使さん達が、再び怪物に近づいて行った。よく調べて見ると、蠍の胸の所が割れるようになっている。そこを押し開いてみると、黒い背広服が現われて来た。
「やっぱり人間だ。若い男だ」
やっとの事で虫の衣裳を脱がせると、病人のように元気のない一人の洋服青年が、ペーヴメントの上にグッタリとなった。いくら呼びかけても、まだ返事をする気力がなかった。
「病人だぜ。早く医者へつれて行かなきゃ」
「それよりもお巡りさんに引渡した方がいいぜ」
呼びに行くまでもなく、騒ぎを聞きつけて、そのお巡りさんがやって来た。
「オイッ、しっかりし給え。どこが悪いんだ。君は一体どこからやって来たんだ」
警官に背中をぶちのめされると、若者はやっと目を見開いて、不安らしくあたりを眺めた。
「君はどこのもんだ」
再び訊ねると、若者はモグモグと口を動かして、幽に答えた。
「相川守っていうんです。……赤蠍にやられたんです」
「エッ? じゃあんたは、あの相川操一さんの、……」
「そうです。……珠子の兄です」
立並ぶ人々は、それを聞くと、ハッとして思わず目と目を見合わないではいられなかった。
相川珠子と云えば、殺人鬼「赤い蠍」の第二の犠牲者として、無残にもその死体を銀座街頭に
「詳しいことはあとで聞きます。兎も角、あなたのお宅へ電話をかけて、この事をお知らせしましょう」
警官はひどく緊張した面持で、小使を案内に立てて、電話を借りる為に、Sビルディングの中へ駈け込んで行った。