怪老人とトランク
慌てるだけ慌て、騒ぐだけ騒いだあとの桜井邸は、その午後になって、俄かにシーンと鎮まり返ってしまった。怒鳴ったとて仕方がない。泣いたとて仕方がない。一番いいのは、一同が冷静になって、ある限りの智慧を絞って、善後の処置を考究する事だ。そこへ気のついた桜井栄之丞氏は、関係者一同を階下の洋風客間に集めて、異様な協議会を開いたのだ。
閉め切った西洋館の電気ストウヴを囲んで、桜井氏夫妻や書生達、その頃になってやっと気力を恢復した家庭教師の殿村夫人、桜井家出入りの重だった人々などが、令嬢取戻しの手段方法について、議論を闘わしていた。
そうしている所へ、数日
前に記した通り、相川守青年は、彼の愛人である桜井品子さんの危難を救おうとして、却って賊の術中に陥り、麻酔薬に身の自由を奪われた上、恐ろしい赤蠍の衣裳に包まれて、早朝のオフィス街に捨てられていたのであるが、巡回警官の急報によって駈けつけた父操一氏に連れられて自宅に帰り、医師の介抱にやや元気を恢復した所へ、桜井家から、品子さんが誘拐されたとの電話を受けたのであった。
「畜生! とうとうやりやがったな。……お父さん、僕はもう大丈夫です。すぐに桜井さんへお見舞いに行こうじゃありませんか」
守は非常に昂奮して、
操一氏は桜井栄之丞氏とは私交上でも事業関係でも、
同じ様に最愛の一人娘を奪われた中老の父親、相川氏と桜井氏とが、どの様な感情を抱き、どの様に目と目を見合わせ、どんな挨拶を取り交したか、ここにその一々を記すまでもないことである。
相川父子に
「蓑浦君、待ち兼ねていた。手掛りは? 賊の手掛りは?」
桜井氏が、警部の顔を見るより叫ぶ様に訊ねた。
「賊の自動車が発見されたのです」
係長は、一向浮かぬ顔付で、そこの長椅子に腰かけながら答えた。
「で、品子は、娘は生きていましたか?」
「イヤ、そうではないのです。賊の乗り捨てた空っぽの自動車が見つかったばかりです。奴等はこの区内のKというガレージから、タクシーを借り出して使用していたのです。運転手も賊の仲間で、ちゃんと免許証を用意していて、それをガレージの主人に見せて、車を借り出したと云うことです」
「その
「
「品子を隠して連れ出したあの鎧みたいな大蠍が?」
「そうです。だもんだから、忽ち附近のいたずら小僧共に見つかってしまったのです。自動車の中にえたいの知れない真赤な動物がいるというんで、大変な騒ぎになったのだそうです。間もなく警察にもその事が知れて、我々の方へも電話の通知があったものだから、課の者が行って見ると、やっぱりあの大蠍だったのです」
「で、その中には、大蠍の中には?」
「空っぽでした。そして、
「併しもう手遅れではあるまいか。品子は今まで安全でいるだろうか」
桜井氏は非難の調子を含めて、強く云った。蓑浦氏は渋い顔をして沈黙する外はなかった。
「併し、ここに
突然、部屋の隅から相川守青年が口をはさんだ。
「アア、あの評判の奇人ですね。併し、いくら老人が頑張っても、個人の力では、この大敵をどうする事も出来ないでしょう。東京中の何千という警察官が、
蓑浦氏は一笑に附した。
すると、相川操一氏がそれを受けて、
「こいつは、三笠氏の心酔者でしてね。一にも二にも、三笠龍介なんだが、珠子の場合でも分る通り、流石の老探偵も、赤蠍には参っている様です。僕なども最初はあの老人を信頼して万事を任せていたのですが、今となって考えると、少し
「でも、今度こそは、白髪首をかけても、賊を捕えて見せると、大変な意気込みでしたが、……」
守青年は諦め切れないのだ。
「当てにはならないよ。珠子の折もその調子だった。そして、まんまとしくじったではないか」
「わたくしも、あの方はお恨みに思って居ります」
殿村夫人もその尾について、三笠探偵非難の声を揚げた。
「私立探偵など
一座の人々は大部分この意見に賛成して、口々に私立探偵の頼むべからざる事を云い立てるのであった。
気の毒な三笠老探偵は、今や
丁度その時、桜井家の門前に、一台の自動車が停まって、その中から二人の異様な人物が降りて来た。
前に立つのは、
そのあとから、やっぱり同じ印半纒を着た屈強の大男が、鉄板張りの大トランクを、背中にのせて、従っている。何とも珍妙なお客様だ。
二人は門内の砂利道を玄関につくと、そこの
「どなたでしょうか。只今少しとりこんで居りますので、……」
と門前払いの気勢を示した。
白髯の老請負師は、女中の
「イヤ、君では分らん。御主人の桜井さんに、こういうものが訪ねて来たと取次いで下さい。相川操一さんもここへ来ておられる筈じゃ。又、わしの親友の相川守君も、いる筈じゃ。みなさんに、わしが来たと伝えて下さい」
と
女中は老人の
「ヤア、先生ですか。どうかお上り下さい。多分もう御承知でしょうが、ここのお嬢さんが、又あいつに誘拐されてしまったのです。それについて今みんなが集まって相談していた所です」
老人は三笠龍介氏であった。何の為の変装かは分らぬが、半纒姿の老探偵に相違なかった。トランクを担いでいる大男にも見覚えがある。いつか守青年を龍介氏の書斎に案内してくれた、三笠探偵事務所の豪傑書生だ。