悪魔の正体
一寸法師の小娘が、駈けて行って抱きついたのは、……オヤ、これはどうしたのだ。何かの間違いではないのか。……謹厳そのものの如き家庭教師殿村夫人の膝であった。
「マア、この子は何をするんです。私お前なんか見たこともありませんよ」
殿村夫人が狼狽して叫び声を立てた。
「オッ
一寸法師が、相川青年には聞き覚えのある、例の浪花節語りみたいな、不気味な嗄れ声で泣き叫びながら、殿村夫人の
「マア、いやだ。この人は何を感違いしているんでしょう。お離しなさいったら」
殿村夫人がなおも
「お前さんが犯人じゃ。……殿村夫人、もう観念したらよかろう。いくら低能な片輪者でも、自分の母親を間違える奴はない。その可哀相な子供は、お前さんの娘じゃろう」
すると、殿村夫人は、妙に顔を歪めて笑い出した。
「ホホホホホ、マア、何をおっしゃっているんです。こんなものの云う事が当てになるものですか。きっと気でも違っているのでしょう。それに、この私が、赤い蠍の首領でございますって? ホホホホホ、いくらなんでも、そんなことが、第一相川珠子さんにせよ、桜井品子さんにせよ、私にとっては大切な御主人なり、可愛い生徒さんじゃございませんか。それをどうして私が、……」
「お黙りなさい。お前さんがその二人の家庭教師であったという事が、とりも直さず犯人である証拠じゃ。上べは行いすました教師となって、餌食の身辺を離れず、ありとあらゆる手段を弄していたのじゃ。よいか。先ず第一に、春川月子の殺人を予告したのは誰じゃった。お前さんが読唇術で誰かの話を聞取ったのではなかったか。そして、守君を現場へやって、恐ろしい場面を覗かせたのではないか。あの時レストランで話し合っていた二人連れの男は、犯人でも何でもなかったのかも知れん。それからじゃ、谷中の事件があってから五日目に、相川珠子さんが、湯殿のガラス窓に青眼鏡の犯人の顔を見た。あれはお前さんじゃない。お前さんは、その時相川さんの邸内に居って、湯殿へかけつけたのだからね。その時の窓の外の顔は、このお前さんの娘の変装だったに違いない。悪事を悪事とも思わぬ低能児じゃから、母親の云いつけとあれば何でもする。それに、あの時の不思議は、窓の外の塀が非常に高いので、どうして曲者が入って来たかということじゃった。だが、曲者がこのちっぽけな娘と分れば、何でもない。あの塀の裾には、子供なれば潜れる程の隙間があったのだからね。
あの時、誰も入った筈のない、窓を閉め切った湯殿の中に、蠍の死骸が落ちていて、大騒ぎをやったのじゃが、それなどは、殿村夫人、お前さんが犯人でないとすると解釈がつかんではないか。そうじゃろう。あの時お前さんが真先に駈けつけて来て、倒れている珠子さんの側へ、用意していた蠍をソッと投げ出して置いたのじゃ。……どうです。相川さんも守君もよく思い出してごらんなさい。こういう風に考えたら、妖虫団の魔術なんて、たわいもないものじゃありませんか。
それから、わしの宅で、わしと守君とを地下室へ落した、あの偽探偵じゃ。あいつがどうして、守君の訪問を予め知っていたか。外でもない、殿村夫人がちゃんと手配をして置いたからじゃ。守君がわしの留守へ電話をかけて、それから夜の十時にやって来るまでには、たっぷり時間があった。その間に殿村夫人が外部の手下と打合せをするのは訳もない事じゃからね。
同じ晩に、相川さんのお宅では、珠子さんのベッドの下に赤蠍を描いた紙切れが落ちている、新聞の夕刊に赤鉛筆で蠍の絵が描いてある、女中部屋に同じ様な絵が貼りつけてあるという騒ぎじゃった。あれなども、殿村夫人が、先へ先へと廻って、赤鉛筆であんなものを描いて置いたとすれば、何の変てつもないことじゃ。第一、珠子さんのベッドの下の紙切れを発見したのが殿村夫人その人じゃなかったかね。ハハハハハ。何という鮮かな手品じゃ。種も仕掛けもない。いつも犯人自身が、ちゃんと現場におったのじゃ。そして、さもしとやかに、お嬢さんの守護をしている様な顔をしておったのじゃ。
まだあるぞ。偽探偵の奴が、珠子さんを三河島へ誘拐した時じゃね、あれは珠子さんを自宅へ置いては危険だから親戚へ送って行くという口実じゃった。そして、お父さんの相川さんが珠子さんに附添って行かれた。それに、家庭教師ともあろうものが、その場に居合せながら、どうして珠子さんをお送りしなかったのじゃ。
わしはあの時、三河島の見世物小屋の中で、初めて青眼鏡の首領という男に面会した。その声も聞いた。わしは思ったことじゃ。なんてほっそりとした小男じゃろうとね。無理はない、あの青眼鏡は、実はお前さんという女の変装だったのじゃからね。変装の証拠には、第一に目の特徴を隠す色眼鏡じゃ。第二に、お前さんのその欠唇を隠す濃いつけ髭じゃ。それから第三に、あの地の底からでも湧いて来る様な陰気な作り声じゃ。地声で話したんじゃあ一ぺんに女と知れてしまうからね。その苦しまぎれの作り声が、陰々たる妖気を漂わして、思いがけない効果を上げておったのじゃよ。
今度は桜井さんでの出来事だが、先ず最初、お前さんがお目見えに来て、品子さんとたった二人でいた時に、突然品子さんの肩へ蠍の死骸がからみついた。そんな魔法みたいな事が起って堪るものではない。これも種を割って見れば、至極つまらんお笑い草じゃ。つまりお前さんが話をしながら、ソッと品子さんの肩へ手を廻して、あの虫をくッつけて置いたという訳さ。ハハハハハハ。
さて、今朝の出来事じゃが、品子さんが誘拐された時、なぜ女中だけが殴打されて、殿村夫人が手数のかかる猿轡なぞはめられていたか。この点に誰も気づいていない様子じゃが、ここにトリックがあった。殿村夫人は賊の為にひどい目に遭ったと見せかけなければならぬ。と云って、部下のものが、首領をなぐる訳には行かない。そこで、手数のかかる猿轡という事になったのじゃ。尤も、少しも手向いなんぞしない。却ってお手伝いをして縛られたに違いないから、手数と云っても大したことはなかったがね。賊の首領が被害者になって見せるなんて、実にうまく考えたものじゃ。こうして置けば万一にも疑いをかけられる
殿村夫人、お前さんは、昨夜から今朝にかけて、まだ色々と仕事をしておる、守君が一寸法師の入った蠍のお化けと取組あっていた時、
こうして
つい今し方、魔法の様にこの席へ現われた、午後三時
三笠探偵は一語は一語と語気を強めて、ジリジリと殿村夫人に詰め寄って行った。夫人は色蒼ざめ、欠唇の唇が異様に開いて、聞える程の烈しい息遣いをしていた。が、強情我慢にも、まだ白状しようとはしない。黙ったまま、血走った目で、探偵をじっと見返している。
「お前さんはまだ云いのがれが出来るとでも思っているのかね。そんな事はみんな情況証拠で取るに足らんとでも云うのかね。それじゃ、これを見るがいい。これはお前さんが頼みに思う手下共が、首領に自白を勧める勧告書じゃ。この筆蹟には見覚えがあろう。お前さんは
それでもまだ、殿村夫人は黙っていた。黙ったまま立上って、憎悪に燃える目で、白髪の老探偵を睨みつけていた。やがて、実に不思議なことには、その蒼ざめた顔が、異様に歪んだかと思うと、突如として甲高い笑い声が、室内に響き渡った。おかしくておかしくて堪らない様に、いつまでも笑いやまなかった。