老探偵の勝利
実に意外なことが起ったのだ。開かれた襖の向うには、天井裏で殺された筈の桜井品子さんが、いくらか蒼ざめてはいたけれど、それでもニッコリ笑いながら立っていたではないか。
一目それを見ると、流石の妖魔殿村夫人も、アッとのけぞらんばかりに驚いて、物を云う力もなく、ヘタヘタと坐り込んでしまった。
驚いたのは殿村夫人ばかりではない。一座の人々はアッと驚喜の叫びを立てないではいられなかった。中にも父桜井氏は、夢中に駈け出していた。駈け出して品子さんに
アア、よかった。第三の被害者は命拾いをしたのだ。品子さんはかすり傷一つ受けないで、ちゃんと生きていたのだ。だが、それではどうもおかしいではないか。その夥しい天井の血潮は一体どこから流れたのだ。若しかしたら、品子さんではない別の人物が、屋根裏で惨殺されているのではないだろうか。それについて、第一番に不審を抱いたのは、赤蠍の殿村夫人であった。彼女は夢でも見ているのではないかと疑う様に、キョロキョロとあたりを見廻していたが、やがて、堪りかねたのか?
「信じられない。私には分らない。一体何が起ったのだろう」
とうつけの様に呟くのであった。
「信じられんかね」
三笠探偵は、赤蠍の狼狽を小気味よげに眺めながら
「ハハハハハハ、魔術師が魔術にかかったという訳じゃね。流石の手品使いも、他人の手品の種は分らんと見えるね。お前は気づかなんだのかね、さい前わしが、品子さんの飼猫に引掻かれたと云って、手首から血を流していたのを。あれが手品の種なんじゃよ。わしはその猫をとっ捕まえたのだ。そして紐で縛りつけた上、可哀相じゃが、ちょっと息の根を止めて置いたのだよ。これはあの時、猫めが死にもの狂いで引掻きよった傷じゃ。それから、その猫をどこへやったと思うね。ハハハハハハ、やっと気がついたか。その通りじゃ。品子さんを天井裏から助け
アア、そうだったのか。三笠探偵が最初相川守と別室で話をした時、誰にも知らせず二階へ上って、品子さんの部屋を見に行ったが、その時
「さい前、午後三時云々の予告状を見た時に、わしは品子さんが、この邸内のどこかに隠されているに違いないと睨んだ。でなければ、『諸君の目の前で』という文句が意味を
三笠探偵が説明した。
丁度その時、階段にバタバタと
「おッ母ちゃん」
と叫びながら、母の殿村夫人の膝にしがみついて行った。
だが母の方は、そこどころではなかった。苦心に苦心を重ねて手に入れた獲物が、罠を抜け出して目の前に笑っているのだ。悪魔の正体はあばかれるし、獲物は取逃がすし、殿村夫人はもう半狂乱の体であった。
彼女は縋る娘を振り離して、スックと立上ると、
「アア、くやしい、くやしい。離して、離して」
殿村夫人は髪ふり乱し、目は赤く、顔は青く、唇は紫色となって、
「品子さんは危いから、早く下へお降りなさい。それから、桜井さん、一つ警察へ電話をかけて下さらんか。赤蠍を捕えたからと云ってね」
探偵の指図に従って、桜井氏は品子をいたわりながら、階下へと降りて行った。
「殿村、
妖魔も今は凡てを諦める外はなかった。彼女はグッタリとそこに坐って、縋り寄る一寸法師をもう振り離そうとしなかった。
犯人が逃げる様子もないので、人々は二人を遠まきにして、警官来着を待つ間の放心状態にあった。ここは、裁判所ではないのだから訊問する事もない。仮令訊ねて見ても、この昂奮状態では満足な返事を得られ相にはない。イヤ、態々聞かなくても、大方の事情は想像がついている。ただ、二人を逃がさぬ様にさえ気をつけていればよいのだ。
殿村夫人は娘を抱きしめる様にして、激情の余り泣き出す力さえなく、空ろな目で空間を見つめたまま、長い長い間身動きもしなかったが、やがて、彼女の右手が、内ぶところの中でモゾモゾやっていたかと思うと、何かしら小さな丸薬の様なものを取出して、膝に
「オイ、何か呑んだな。それは何だ、まさか、……」
三笠探偵がびっくりして叫び出した時には、もう手遅れであった。烈しい薬物の
「アア、しまったわい。こいつは、まさかの時に、自分を殺す毒薬を、ちゃんと用意しておったのじゃ」
探偵は、この失策をさして悔む様子もなく、独りごとの様に云った。彼は内心では、殿村親子の世にも異様な境遇に、幽な同情を感じていたのかも知れない。そして、彼女
かくして妖虫殺人事件は、意外に簡単な結末を告げた。ただ残っているのは、殿村親子の犯罪動機の
その手記というのは、殿村夫人自身が半紙五十枚程に
殿村夫人の母なる人が、世にも不幸なる醜婦であった。結婚をして殿村夫人を産んだのではあるが、醜婦の為に夫や夫の周囲の人々から
殿村夫人はその母の呪いの中に育った。「お前は決して結婚するでない。この母がよい見せしめだ。結婚したらきっと恐ろしい事が起るのだから」と云い聞かされながら大きくなった。母の死後は親切な身寄りとてもなく、少女にして既に世の味気なさを知ったのであるが、生れついての醜貌と欠唇とが、同年輩の少年少女は勿論大人達までの嘲笑の的となって、くやしさ恥しさに幾度自殺を考えたか知れなかった。
醜貌に引かえて
この苦悩は、彼女の成熟と共に、加速度を以て増大して行った。男というものが彼女の目に映る様になり、人生というものがハッキリ分ってしまって来るに従って、
この比類もない不幸が、彼女を気違いにした。母親から受け継いだ
ただ訳もなく美しい女が彼女の仇敵であった。この世界から美しい女という女を
呪いの妖魔は、なるべく世間に知れ渡った美貌の娘を物色した。春川月子が選ばれたのも、相川珠子、桜井品子が選ばれたのも、そういう意味からであった。月子が余りにも有名な女優であったことは云うまでもない。珠子はミス・トウキョウであったし、品子は美貌のヴァイオリニストとして世の視聴を集めている娘さんであった。彼女等が妖魔の餌食と狙われたのは、偶然ではなかったのだ。
長々しい殿村夫人の手記の内容は、概略すればこの様な意味であった。無理もないと云えば云えぬこともなかった。併し、如何に深刻な悲痛からとは云え、あの惨虐は到底許さるべくもない事だ。彼女の計画が遂に失敗に帰し、親子
白髪の老探偵三笠龍介は、その激情的な事件によって、一段と有名になった。その事があってから、守青年と品子さんの愛情が、一層固く結ばれたことは云うまでもない。相川操一氏は、守青年のフィアンセとしての品子さんを、新しく生れた我娘と考えることによって、愛嬢珠子さんを失った悲しみを、幾分慰めることが出来た。
素人探偵相川守の名は、大変世間的になった。だが守青年はもう