けたたましい騒音が、小宮幸治の眠りを破った。
小宮は、心地よい春眠の床にしがみつくかのように、薄い夜具に頭をもぐり込ませた。だが、激しい騒音には、その程度の防音処置はなんの効果もなかった。小宮は鼓膜の苦痛から逃れるために、眠りへの愛着を断ち切るほかはなかった。
小宮幸治は、ゆっくりと上半身を起こした。薄いカーテンを通して入ってきた春の陽が、汚れた部屋の中を、淀んだ水中のような青い色に染めている。その部屋の隅に、騒音源の電話機が、文明の利器特有の無遠慮さで、黒い不格好な全身を振わせていた。
「もしもし……」
ようやく身を這い寄せて受話器を取り上げた小宮は、あえぐようにいった。
「すぐ来て下さいよ、小宮さん」
電話の相手はいきなりそういった。小宮と同じく、通商産業省エネルギー庁の石油第一課で課長補佐を勤める沼川昭一の声だった。
「小宮さん、まだ何も知らないの、昨夜の事故のこと」
沼川は不思議だといわんばかりの口調だ。
〈昨夜十二時頃まで残業して、いまこの電話で起こされたばかりの俺が、何も知っているはずないじゃないか〉
小宮は内心少々腹立たしく思った。
「昨日の十時過ぎらしいんだけどね」
沼川は茨城なまりの早口でしゃべり出した。
「N石油の瀬戸内精油所で原油陸揚げ中に、タンカーとシーバースを繋いだパイプがはずれて六千リットルほどの原油が海にこぼれたんですよ。それで付近の漁民が騒ぎ出してね。このことで今日十一時から衆議院の公害特別委員会で、吉崎公造先生が緊急質問するんですよ」
〈また公害事故か……〉
小宮は全身が重くなる気持だった。
「吉崎先生は公害問題には詳しいし、この前の北海道のタンカー衝突事故の時も、だいぶきびしくやられているから……」
沼川は、小宮より一年早く通産省に入ったエリート官僚の一人だが、技官の課長補佐だ。予算とか法令関係とか国会対策とかいった、いわゆる総括事務は、事務官の課長補佐である小宮の担当なのだ。だが、今朝の沼川は、情報独占者の優越感で、長々としゃべり続けた。
「わかった。すぐ行きますよ」
話の切れ目を把《とら》えて、小宮はそういうと電話を切った。もう九時半に近かった。
小宮は新聞だけを持ってアパートを飛び出し、地下鉄の駅へ急いだ。四月中旬の空は晴れ、芽の出かけた梢を渡る風がさわやかだった。しかし、連日の残業による疲れが、三十四歳の彼の肉体に粘っこく溜っていて、気分は晴れなかった。
電車に乗るとすぐ、小宮は新聞を広げた。彼の目は自然とN石油の事故の記事を捜していた。
それはすぐ見つかった。第一面の中央下部に、「N石油でまた石油流出」という二段抜きの見出しがあった。それに続く記事は、先刻沼川が電話でいった事実だけを書いた簡単なものだった。だが、その末尾には、「関連記事、22・23面」というゴシック文字が黒く付されている。
小宮は、二十二、三面を開いた。そして、驚いた。二十三面の最上段に「死の海に黒い魔液の追い打ち」という、黒地白抜きの大見出しが横たわっていたからである。そしてその下には、「またも原油流出──夜の海に漁民の怒り爆発」という縦見出しが続き、タンカーの船尾と旗を立てた漁船らしい小船との、やや不鮮明な写真がある。続いて漁民代表の「怒りの声」と精油所側の「陳謝の弁」、それに公害事故にはよく登場する大学教授の「企業・行政当局批判」の論評などもあり、大きなスペースを占めていた。
〈公害、公害と、国会も新聞も騒ぎ過ぎる〉
と小宮は思った。わずか六キロリットルやそこいらの原油が海に流出したことが、それほど大問題とは彼には考えられなかったからだ。
世の中は平和だった。ベトナム戦争はすでに遠い歴史の中に消えていたし、新たな大紛争もなかった。日本経済も順調であった。かつてのような高度成長こそなくなったが、さほど深刻な不況でもない。物価は依然として上昇しているが、ひところの狂乱物価を経験した国民は一〇%内外の物価上昇をさして気にしなくなっている。
こんななかで、公害は以前にもまして�人気�のある政治・社会問題だった。
人びとの不満と不安とを最大の�市場�と心得るマスコミは、好んでこれを取り上げたし、政治家は、この問題に檜舞台を見い出している。財界、つまり既成大企業の首脳部にとっても、公害騒ぎは悪いものではない。時にはわが身に火の粉をかぶることもあったが、公害規制と住民パワーが新しい工場の建設を抑えてくれるお陰で、新規参入者との競争が生じないことの利益の方が、ずっと大きいのだ。
もちろん、公害対策はかなりの成果を上げている。大都市の河川や工場地帯の大気は、一時よりずっときれいになったし、有害添加物の規制も大幅に進んだ。だが、公害問題の種は尽きなかった。最近、特に注目されだしたのが公害事故だ。
人身や財物の直接の被害は少なくても、それが公害を引き起こす恐れのある事故を「公害事故」と呼びだしたのは、つい二年ほど前からだ。それまでは、新聞の地方版の三行記事で終わった事故までが、大々的に報道されるようになった。
公害事故は石油関係に特に多かった。小宮幸治が石油第一課の課長補佐となった昨年十月からの半年ほどの間だけでも、国会で取り上げられた公害事故が十件近くあった。
役人のなかにも、公害問題こそ権限強化と組織拡張の沃野だと考え、世の中の反公害ムードを歓迎する者もあった。だが、小宮は、そんな現実に満足し切れなかった。
小宮は新聞の頁を繰った。
[#1字下げ] 開幕以来不調の巨人は昨日も負けた……将棋名人戦第三局で現名人が二勝目をあげた……三月の輸出は好調で、日本の貿易黒字は二十七億ドルにも上った……証券市場は変わらず、ドル相場は引き続き漸騰……
そんな記事のなかで、一つ、小宮の目を引いたものがあった。「軍事経済同盟締結か──中東急進派」という二段見出しの外電記事だ。
[#1字下げ]「中東急進派諸国の間で、軍事経済同盟締結の動きが高まっている。先週行われたアリー首相とムガーディー革命会議議長との会談で、この点について合意に達したとみられており、今後両首脳は他の急進派諸国にも参加を呼びかけるものと考えられる。この同盟が実際に締結されれば、穏健派のアラブ諸国やイスラエルなどを刺激するとの懸念も広まっている。……」