「ごめんね、遅くなって。打ち合わせが長引いちゃって」
「ううん、平気。わたしが急に呼びだしたんだもの」
真夏の太陽が、遠くから照りつける。首筋に汗が滲むのを感じて、桃子は葛葉を促《うなが》した。
「喫茶店にでも行こう。暑いから」
葛葉は少し、目を見開いて、それから頷いた。彼女の仕草は、いくつになってもあまり変わらない。どこか幼げで、不安そうだ。
あの日から桃子は太陽が嫌いだ。汗をかくことも、そうして、夏も。
桃子たちは手近な喫茶店に飛び込んだ。ふたりともアイスコーヒーを注文して、汗を拭いた。
葛葉はあれから、デザイン関係の専門学校に進んで、今は装丁の仕事をしている。本屋に行くと、葛葉が装丁したどこかほの暗い色調の本を見ることがある。葛葉の仕事だということは、わざわざ確かめなくても、桃子にはすぐわかった。
桃子は付属の短大に進んで、ごく普通に就職した。もうOL生活も七年目になる。そうして、来年、結婚する。
あれからの日々は毎日平穏で、当たり前のように過ぎていった。
ただ、ことあるごとにあの日々を思い出すだけだ。ことさら、夏になれば。
注文した品が運ばれてくる。葛葉はアイスコーヒーにミルクをそそぎ入れながら、つぶやいた。
「あれから、もう十年になるんだね」
桃子は頷いた。ふたりはもう二十七になってしまった。あの頃の自分たちなら、「おばさん」と呼んで笑うだろう。
あの頃の自分は、ひたむきで、意地悪で、なんだか曖昧で、そうしてひどく刺々しかった。あらゆるものがまだ未整理のまま散らかっていた。
今、その感覚を思い出そうとしても、まるで霧がかかったように遠くて、もどかしい。
葛葉は口を開きかけて、そうして閉じた。
「どうしたの?」
「おかしなことを言うと思わないでほしいんだけど……」
「なあに?」
「わたし、なんとなく、ユンジャや里美や聖は殺されたんじゃないような気がしているの」
桃子は眉をひそめて、彼女を見た。
「ううん、わかっているの。あの男が殺したことは。でも、その一方で思っているの。あんな男ごときに、ユンジャたちが殺されるわけないって」
葛葉は顔を上げた。そうして、早口で言った。
「あの子たちは、ただ行ってしまっただけなんじゃないかって」
桃子は頷いた。そう、たぶん少女から大人に変わる瞬間には、ひどく大きな時空の裂け目があるのだろう。
彼女たちは、そこを乗り越えなかっただけだ。ただ、笑いながら手をつないで、その裂け目の中に消えていったのだと思う。
事実、桃子たちの一部もあのとき、彼女たちと一緒に行ってしまったような気がする。
どんなに取り戻したくとも、それは戻ってこない。彼女たちの命が戻ってこないように。
桃子はどこか切ないような気持ちになる。
なにか、大事な物をなくしてしまったときのように。